軍医として
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鷗外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医(第一期生)であった。医学先進国のドイツに4年間留学した。留学中に執筆した二本の論文「日本兵食論」および「日本兵食論大意」は、師のホフマンらの研究論文と1882年(明治15年)頃の日本国内論文を種本に切り貼りして書かれ臨床実験もまったく行われていない論文捏造だった。帰国した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任を務めた。その試験は、当時の栄養学の最先端に位置していた。日清戦争と日露戦争に出征した鷗外は、小倉時代を除くと、常に東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権を握るトップの陸軍省医務局長にまで上りつめた。 ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、医学界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、日本海軍の多くと日本陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達を出したこともあった。二毛作が普通であった当時の米作は約600万トン、麦作は約200万トンあり、麦もほぼ自給できる水準に有った。そもそも、鷗外は「日本兵食論大意」において「米食と脚気の関係有無は余敢て説かず」としている。鷗外自身はあくまで陸軍軍医として兵食の栄養学的研究を行っていただけで、脚気の研究をしていたわけではない。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鷗外は脚気の原因についての確たる理論や信念を持っておらず、門外漢であるがゆえに、当時の学術的権威の説(これが間違っていたのだが)を採用したのではないかと思われる。[要出典] 日露戦争では、1904年(明治37年)4月8日、第2軍の戦闘序列(指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を森(第2軍)軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)との記録が残されている(ちなみに第2軍で脚気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」は様々な解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となった。 脚気問題について鷗外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気病調査会の創設(1908年・明治41年)に動いた。 脚気の原因解明を目的としたその調査会は、陸軍大臣の監督する国家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)が注ぎ込まれた。予算に制約がある中、「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ確定して廃止(1924年・大正13年)されたものの、その後の脚気病研究会の母体となった。鷗外が創設に動いた臨時脚気病調査会は、脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたと位置づける見解がある。 反面、「その十六年間の活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある。 なお、晩年の鷗外は、同調査会で調査研究中の「脚気の原因」について態度を明らかにしなかった。
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軍医として
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「ジョン・K・ラティマー」の記事における「軍医として」の解説
第二次世界大戦中、ラティマーはアメリカ陸軍の軍医として活動し、ノルマンディー上陸作戦(D-デイ)の負傷者を現場で治療した。ジョージ・パットン将軍率いる第3軍に所属し、パットンのフランス横断作戦に参加した。パットンが初めてライン川を渡ったとき、橋の途中で立ち止まり、川に向かって小便をするのを目撃したという話を、ラティマーはよく語っていた。 1945年春、ラティマーはニュルンベルクの囚人兵舎に配属された。ここには、ヘルマン・ゲーリングらドイツの元高官がニュルンベルク裁判の間収容されていた。ニュルンベルク裁判では総医務官を務め、戦争犯罪被告の医療に対応した。ゲーリングは、死刑執行の直前に、隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛んで独房で自殺し、ラティマーはニュルンベルク刑務所でゲーリングの遺体を見届けた。 ラティマーは、大佐の地位を得て退役した。 ラティマーはニュルンベルクでの経験をもとにして、1999年に"Hitler's Fatal Sickness and Other Secrets of the Nazi Leaders"(ヒトラーの致命的な病気とナチス指導者たちのその他の秘密)を執筆した。この本の中でラティマーは、ヒトラーがパーキンソン病の症状を呈しているという説を唱え、署名の劣化や、手の震えを防ぐために物を握りしめているヒトラーの写真などを例に挙げて実証している。さらにラティマーは、ヒトラーが自分の病気を知ったことが、1940年後半にドイツがイギリスへの攻撃を延期し、ロシアに注意を向ける要因になったと主張している。
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