軍医としてとは? わかりやすく解説

軍医として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:13 UTC 版)

森鷗外」の記事における「軍医として」の解説

鷗外東京帝國大学近代西洋医学学んだ陸軍軍医第一期生)であった医学先進国ドイツ4年留学した留学中執筆した二本論文日本兵食論」および「日本兵食論大意」は、師のホフマンらの研究論文1882年明治15年)頃の日本国内論文種本切り貼りして書かれ臨床実験もまったく行われていない論文捏造だった。帰国した1889年明治22年8月12月には陸軍兵食試験主任務めた。その試験は、当時栄養学最先端位置していた。日清戦争と日露戦争出征した鷗外は、小倉時代を除くと、常に東京勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍医総監中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医人事権を握るトップ陸軍省医務局長にまで上りつめた。 ビタミン存在知られていなかった当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気原因について医学界主流占めた伝染病説に同調したまた、経験的に脚気効果があるとされた麦飯について、日本海軍多く日本陸軍一部効果実証されいたものの、麦飯脚気改善相関関係は(ドイツ医学的に証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯禁止する通達出したこともあった。二毛作が普通であった当時米作は約600トン麦作は約200トンあり、麦もほぼ自給できる水準有ったそもそも鷗外は「日本兵食論大意」において「米食脚気の関係有無は余敢て説かず」としている。鷗外自身はあくまで陸軍軍医として兵食栄養学的研究行っていただけで、脚気の研究をしていたわけではない。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}鷗外脚気原因について確たる理論信念持っておらず、門外漢であるがゆえに、当時学術的権威の説(これが間違っていたのだが)を採用したではないか思われる。[要出典] 日露戦争では、1904年明治37年4月8日第2軍戦闘序列指揮系統下)にあった鶴田第1師団軍医部長、横井第3師団軍医部長が「麦飯給与の件を第2軍軍医部長に勧めたるも返事なし」(鶴田次郎日露戦役従軍日誌』)との記録残されている(ちなみに第2軍脚気発生最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」は様々な解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部決め勅令天皇名)によって指示され戦時兵食白米6合」を遵守した結果的に陸軍で約25万人脚気患者発生し、約27千人死亡する事態となった脚気問題について鷗外は、陸軍省医務局長に就任した直後から、臨時脚気調査会創設1908年明治41年)に動いた脚気原因解明目的としたその調査会は、陸軍大臣監督する国家機関として、多く研究者招聘され多額予算陸軍費)が注ぎ込まれた。予算制約がある中、「脚気ビタミン欠乏説」がほぼ確定して廃止1924年大正13年)されたものの、その後脚気研究会母体となった鷗外創設動いた臨時脚気調査会は、脚気研究土台作りビタミン研究基礎築いた位置づける見解がある。 反面、「その十六年間活動は、脚気栄養障害説=ビタミンB欠乏症白米原因)説に柵をかけ、その承認遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある。 なお、晩年鷗外は、同調査会で調査研究中の「脚気原因」について態度明らかにしなかった。

※この「軍医として」の解説は、「森鷗外」の解説の一部です。
「軍医として」を含む「森鷗外」の記事については、「森鷗外」の概要を参照ください。


軍医として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 04:27 UTC 版)

ジョン・K・ラティマー」の記事における「軍医として」の解説

第二次世界大戦中ラティマーアメリカ陸軍の軍医として活動しノルマンディー上陸作戦D-デイ)の負傷者現場で治療したジョージ・パットン将軍率い第3軍所属しパットンフランス横断作戦参加したパットン初めライン川渡ったとき、途中で立ち止まり、川に向かって小便をするのを目撃したという話を、ラティマーはよく語っていた。 1945年春、ラティマーニュルンベルク囚人兵舎配属された。ここには、ヘルマン・ゲーリングドイツ元高官がニュルンベルク裁判の間収容されていた。ニュルンベルク裁判では総医務官務め戦争犯罪被告医療対応したゲーリングは、死刑執行直前に、隠し持っていた青酸カリカプセル噛んで独房自殺しラティマーニュルンベルク刑務所ゲーリング遺体見届けたラティマーは、大佐地位得て退役したラティマーニュルンベルクでの経験をもとにして、1999年に"Hitler's Fatal Sickness and Other Secrets of the Nazi Leaders"(ヒトラー致命的な病気ナチス指導者たちのその他の秘密)を執筆した。この本の中でラティマーは、ヒトラーパーキンソン病症状呈しているという説を唱え署名劣化や、手の震えを防ぐために物を握りしめているヒトラー写真などを例に挙げて実証している。さらにラティマーは、ヒトラー自分病気知ったことが、1940年後半ドイツイギリスへ攻撃延期しロシア注意を向ける要因になった主張している。

※この「軍医として」の解説は、「ジョン・K・ラティマー」の解説の一部です。
「軍医として」を含む「ジョン・K・ラティマー」の記事については、「ジョン・K・ラティマー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「軍医として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「軍医として」の関連用語

軍医としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



軍医としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの森鷗外 (改訂履歴)、ジョン・K・ラティマー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS