こだま‐げんたろう〔‐ゲンタラウ〕【児玉源太郎】
【児玉源太郎】(こだまげんたろう)
日本の江戸時代末期~明治時代に活躍した武士・陸軍軍人。(1852生~1906没)
生涯最終の階級・位階・勲等は陸軍大将、正二位、勲一等、功一級、子爵。
日露戦争において満州軍総参謀長を務め勝利に貢献した。
幼少~陸軍入隊
1852年(嘉永5年)2月25日、周防国徳山藩(長州藩の支藩)の藩士児玉半九郎の子として生まれる。
5歳のときに父が死去し、その後、義兄の児玉次郎彦に養育された。
しかし義兄の次郎彦は源太郎が13歳のときに佐幕派によって殺害され、一家は収入を失い困窮する。
明治元年(1868年)に初陣を果たし、新政府軍の下士官として箱館戦争に参加。
その後、正式に国軍が編成されると将校として入隊し、佐賀の乱において大尉で出動するも、負傷。
その後の神風連の乱では熊本鎮台准参謀として手腕を見せる。
そして、熊本鎮台参謀副長(少佐)のときに西南戦争が発生。
熊本鎮台のある熊本城の篭城戦に参加し、参謀長格として鎮台司令官谷干城を補佐、薩摩軍の猛攻撃から熊本城を護る。
これにより一躍その才能を知られ、頭角をあらわすことになる。
智将、児玉
その後、児玉は陸軍大学校の充実に力を注ぎ、ドイツのクレメンス・W・J・メッケル少佐を日本に招き、国軍の将校教育に多大な貢献をした。
1892年(明治25年)に少将として陸軍次官兼陸軍省軍務局長となり、日清戦争では大山巌大将が第二軍の司令官として出征したため、事実上の陸軍大臣として出征軍を支えた。
そして日清戦争に日本が勝ち、台湾が日本の統治下におかれた後、98年には第4代台湾総督に就任。
後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官)に登用して台湾の安定化に寄与。
さらに陸相のほか内務大臣や文部大臣を歴任する。
日露戦争
日露開戦直前の1903年、参謀次長の田村怡与造が急死。
参謀本部の大黒柱が急になくなるという騒ぎの中、児玉は大臣という栄職を去り、事実上降格となる参謀次長に自ら志願して就任、対ロシア作戦計画を練り上げる。
戦争では満州軍総司令部が創設されると、大山巌司令官の下で総参謀長に就任。
大山司令官を補佐し、旅順要塞攻防の際には第3軍司令官乃木希典の指揮権を多少侵すも、乃木と共に二百三高地攻防を指揮。
この際、火力集中という要塞攻撃の常道を行うため、恒久据え付けで移動が困難だった「28センチ榴弾砲」を、今ある場所からわずか1日で配置転換するという奇抜な作戦を取った。
そして重砲の射撃のもと、歩兵による突撃を同時に行い、わずか半日で前まで攻めあぐねていた二百三高地の占領を完了する。
そして二百三高地越えに28センチ榴弾砲でロシアの旅順艦隊に砲撃を加え、殲滅。
結果、ロシアのバルチック艦隊は日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順要塞のロシア軍は二百三高地攻防を境に弱体化、この1ヵ月後、降伏した。
戦費調達では財閥の大物であった渋沢栄一を説得し、対立する薩摩閥の海軍と長州閥の陸軍をまとめ上げ、日露戦争を実質的に指揮した児玉は、明治日本が直面した危機を卓越した戦略眼で乗り越えた名将であった。
その後
日露戦争中の1904年には陸軍大将に昇進、1906年には参謀総長兼南満州鉄道創立委員長に就任。
情報の重要性に着目し、参謀次長に福島安正を起用して陸軍再整備に着手した矢先、就寝中に脳溢血で急逝。
享年55。
児玉源太郎
児玉源太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 14:27 UTC 版)
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体: 兒玉 源太郞[注釈 1]、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年(明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家[1]。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
注釈
- ^ 兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郞」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。
- ^ 現在の山口県周南市児玉町。長南政義(2019)、pp11。
- ^ 参謀本部のナンバー2は、明治26年10月4日から明治41年12月19日までは「参謀本部次長」であった[18]。児玉の本官は引き続き台湾総督(親任官)であり、非親任官である参謀本部次長を兼任しても降格人事とはならない。「児玉源太郎#経歴」を参照。
- ^ 正攻法の途中段階で大本営や海軍にせかされ実施した2回の総攻撃には反対で準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当初は203高地攻略も提案していなかった事を示唆[19]。
出典
- ^ 朝日日本歴史人物事典・日本大百科全書(ニッポニカ)「児玉源太郎」
- ^ a b c d e 半藤 2013, 位置番号 2973-2984、陸軍大将略歴〔明治期〕:児玉源太郎
- ^ 小川(2006)、p133。
- ^ a b 小川(2006)、p134。
- ^ 小林(2012)、p8。
- ^ 小川(2006)、p134-137。
- ^ 小林(2012)、p11。
- ^ 小川(2006)、p138。
- ^ 長南(2019)、pp60-61。
- ^ 越澤(2011)、72-74頁。
- ^ a b 児玉文庫と児玉源太郎 周南市立図書館
- ^ 長南(2019)、pp234-235。
- ^ 長南(2019)、pp318-323。
- ^ 長南(2019)、pp321-323
- ^ 長南(2019)、pp315-318。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)124頁
- ^ 『官報』第2934号「叙任及辞令」1893年4月14日。
- ^ 秦 2005, pp. 319–320, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-2.参謀本部-A.第1期(明22 - 明41)
- ^ 学研パブリッシング(2011)、p.59
- ^ 学研パブリッシング(2011)、p.69
- ^ a b c 学研パブリッシング(2011)、p.70 奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想
- ^ 長南(2011a)、pp.150 f
- ^ a b 陸軍省 1966, pp. 1445–1449, 明治三十七年 - 自七月 至十二月 - 十二月七日 旅順総攻撃再興と二〇三高地の占領
- ^ 学習研究社刊:歴史群像『日露戦争~陸海軍、進撃と苦闘の五百日』記述より
- ^ 伊藤正徳『軍閥興亡史 新装版 第一巻』潮書房光人社、2016年、235頁。
- ^ 國立臺灣博物館
- ^ https://www.ifsa.jp/index.php?Gkodamagentaro
- ^ 長南(2011a)、p129。長南(2013)、pp68-69。長南(2019)、pp138-140、215-219。小林(2012)、ppⅴ-ⅵ
- ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号240
- ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
- ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日]。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第6843号「叙任及辞令」1906年4月25日。
- ^ 『官報』第6921号「叙任及辞令」1906年7月25日。
- ^ 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
- ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ^ 『官報』第6920号・付録「叙任及辞令」1906年7月24日。
- ^ 『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。
- ^ a b 『官報』第2767号「叙任及辞令」1892年9月15日。
- ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。
- ^ 『官報』第6919号「叙任及辞令」1906年7月23日。
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597、小林(2012)、ppxxiv - xxv。
児玉源太郎
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日本軍が203高地を攻略したのは児玉源太郎が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと機密日露戦史で紹介された。ただし、誤りも多いと別宮暖朗、長南政義、原剛などが書籍で発表している。 児玉は正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した第二次総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには海軍の要請する203高地攻略は弾薬節約の点から反対だった。 第三軍が第三次総攻撃の際、総攻撃途上で作戦を変更して203高地攻略を決意した際には、満州軍総司令部が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得している。 第三軍の参謀はほとんどが来訪当日は児玉と会っておらず電話連絡で済ませている。児玉が戦闘視察時に第三軍参謀を叱責したとされる話は事実ではない。 児玉は予備兵力としておかれていた12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を、203高地に近い高崎山に移し高地とは別目標に対して攻撃するよう指示した。攻城砲兵司令部の判断は第三軍司令部も把握していた。 近年、第三軍司令部側の史料から、児玉が旅順で実際に第三軍の作戦に指示を与えていたことを指摘する研究が新しく出されている。203高地攻めにおける児玉の関与は少なかったという見解もあるが、これに反する意見を秦郁彦が『二〇三高地攻め「乃木・児玉対決シーン」の検証』の中で提示している。
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児玉源太郎
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台湾総督。1900年、孫文の恵州蜂起(中国語版)に際し軍事支援を約束するが、日本政府の外交方針の転換により撤回した。作中では民政長官の後藤新平と共に孫文と面会し抗議を受けるが、これを窘める。
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児玉源太郎
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徳山藩出身の児玉とは大成寺の住職時代から交友関係があった。 ある日児玉が「軍人は禅をどのように扱うべきか」と問いかけたので、鄧州は「今すぐ三千の兵を用いてみよ。そりができれば戦って勝たぬということはない」と答えた。児玉が「目前に兵もいないのにどうやって用いることができるのか」と返したので、「そんなことは朝飯前の茶の子じゃ。いと易いのじゃのに、それが使えぬようじゃ将軍にはなれぬ。天下の将軍となって万卒を率いる、大戦を率いることはならぬのじゃ。それしきのことができなくて、どこに将軍面がある。この偽将軍め」と言い放った。児玉がむっとなって「ならば老師使ってみせよ」と答えると、鄧州はいきなり児玉を引き倒し、その背に馬乗りになるや南天棒を振りかざし、「全軍進めっ」と尻に一鞭当てた。児玉はそのまま進み出し、「なるほど。今日始めて禅機を見ました」と答えた。
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