陸軍次官とは? わかりやすく解説

陸軍次官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 08:24 UTC 版)

阿南惟幾」の記事における「陸軍次官」の解説

1939年昭和14年10月に陸軍次官就任阿南陸軍省への帰還知った将校職員一様に歓喜したという。阿南が陸軍次官に着任する直前9月ノモンハン事件停戦となっていたが、阿南ノモンハン事件日本軍敗北であったことを初め知って愕然としている。既に現場では、第6軍司令官荻洲立兵中将や、第23師団小松原道太郎中将により、無断撤退した長谷部理叡大佐や井置栄一中佐対す私刑等し自決強要なされるなど統率がとれておらず、その後始末委ねられるとなった陸軍省参謀本部は、前任東條英機中将参謀次長多田駿中将対立もあって関係が悪化していたが、阿南同時期に多田に代わって次長就任した幼年学校以来同期親しかった沢田茂中将と「人の和最優先事項としよう陸軍省参謀本部は一体となって難局にあたろう」と申し合わせし、綿密な協力体制構築しててきぱき事後処理ていった人事処分については独断専行して事件拡大した関東軍とそれを抑えることができなかった参謀本部双方処分課すといった“喧嘩両成敗”的な処分行ったが、関東軍参謀として事件拡大深く関与し事実上関東軍司令官」とまで呼ばれた辻政信中佐を、元陸軍大臣板垣や、参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望人物」という陳情によって左遷異動で済ますなど、のちに禍根を残すような処分もあった。ほかにも、膠着し日中戦争指導など難問山積しているなか、人の話をよく聞き人情機微知り尽くして抜群調整能力発揮する阿南仕事ぶり周囲が皆認めるところとなり、声望日に日に増して将来陸軍大臣との呼び声上がるようになったが、阿南自身は「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」の信条通り、自ら政治的発言をすることはなく、政治的な動き軍務局長武藤章中将一任していた。 1939年ヨーロッパで開戦した第二次世界大戦では、ナチス・ドイツ軍快進撃中で、一旦は沈静化していた日独伊三国同盟締結求める声が陸軍内で次第大きくなり、ナチス・ドイツのフランス侵攻によってフランス降伏するとその声は国民巻き込むものに拡大した阿南自身ナチス・ドイツ否定的に捉えていたわけではなかったが、陸海軍協調視点から海軍消極的な日独同盟陸軍積極的に提議すべきではないという方針であった米内内閣首相米内光政方針により日独伊三国同盟の締結には反対であったが、陸軍内で日に日に高まる同盟推進論に「人の和」を重視する阿南沢田抗しきれず、7月8日内大臣木戸幸一に、陸軍日独伊三国同盟推進するため、近衛文麿首班とする内閣要望していることを伝えて沢田武藤図って陸軍大臣畑俊六大将辞職進言した。畑は阿南らの進言によって7月12日米内書面にて辞職申し出米内内閣総辞職追い込まれた。 1940年昭和15年7月22日発足した第2次近衛内閣東條陸軍大臣となったが、東條阿南実務能力高く評価しており、東條要請もあって陸軍次官留任となった東條おおらかな阿南とは対照的に神経質な性格であり最初から合わなかった。それは東條陸軍省最初に行った訓示でも現れており、東條は「政治的発言陸軍大臣だけが行い、いかなる将校発言許さぬ」「健兵対策兵士健康管理)の再検討を行う」の2点強調したが、「健兵対策」については、大臣がわざわざ言及することではなく局長課長級業務であると阿南助言したが、東條聞き入れることなくかたくなにこの1項強調している。 やがて、東條ソリ合わない人物遠ざけ、息のかかった人物重用する恣意的な人事を行うようになり、阿南対立するようになっていく。東條前任の畑が決めていた人事について阿南実行助言すると「高級人事について陸相たる私が一人決める、他人進言無用」と叱責したこともあった。対立決定的になったのは、阿南互いに高く評価しあっていた陸大同期石原に関する人事処分であり、第16師団師団長となっていた石原が、東條1941年昭和16年1月8日陸軍大臣名で示達した「戦陣訓に対して、「師団将兵はこんなものよむべからず」「東條は己をなんと心得ているのか。どこまで増長するのか」「総司令官以下に対して精神教育訓戒をなすとは、天皇統率本義蹂躙した不敵きわまる奴である」と批判したことで、東條激怒し石原予備役」にすると言い出したことであった石原予備役編入命じられ阿南は、これまで石原非凡な才を高く評価してきたこともあって、日頃温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら石原将軍予備役というのは、陸軍自体損失です。あのような有能な人を予備役追い込めば徒に摩擦起きるだけではありませんか」と東條反論し、他の将校見ている前で激し議論繰り広げている。阿南皇族陸軍大将東久邇宮稔彦王にまで頼って、この東條恣意的な人事撤回させようとしたがかなわず1941年3月石原師団長更迭され予備役編入された。 阿南はこの事件東條愛想を尽かして1941年4月異動で、陸軍次官在任期間長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線赴いていった。東條は、阿南後任の陸軍次官には木村兵太郎中将を、人事局長に冨永恭次少将兵務局長に田中隆吉少将任命するなど、陸軍中央東條の息のかかった人物が主要ポスト占めることとなった阿南陸軍中央離れてからも東條人事批判しており、「俺は東条大将ちがって誰でも使える」と部下選り好みする東條との違い強調していた。阿南人事統率方針は「温情統率する」という温情主義であり、部下能力如何に関わらず誰でも使うことができるという自負をもっていた。

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陸軍次官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

東條英機」の記事における「陸軍次官」の解説

1938年昭和13年5月第1次近衛内閣陸軍大臣板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐強引な引き抜き人事局課長額田坦無理やり行わせる同年11月28日軍人会館現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変解決遅延するのは支那側に英米ソ連支援があるからである。従って事変根本解決のためには、今より北方に対してソ連を、南方に対して英米との戦争決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官二正面作戦準備強調」と新聞報道された。 板垣の下、参謀次長多田駿参謀本部総務部長中島鉄蔵陸軍省人事局長・飯沼守対立し板垣より退職迫られるが、「多田次長転出なくば絶対に退職願出しませぬ」と抵抗結果多田転出となり、同時に東條新設され陸軍航空総監に補せられた。

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