陸軍次官
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1939年(昭和14年)10月に陸軍次官就任、阿南の陸軍省への帰還を知った将校や職員は一様に歓喜したという。阿南が陸軍次官に着任する直前の9月にノモンハン事件が停戦となっていたが、阿南はノモンハン事件が日本軍の敗北であったことを初めて知って愕然としている。既に現場では、第6軍司令官荻洲立兵中将や、第23師団長小松原道太郎中将により、無断撤退した長谷部理叡大佐や井置栄一中佐に対する私刑に等しい自決強要がなされるなど統率がとれておらず、その後始末を委ねられる形となった。陸軍省と参謀本部は、前任の東條英機中将と参謀次長多田駿中将の対立もあって関係が悪化していたが、阿南は同時期に多田に代わって次長に就任した幼年学校以来の同期で親しかった沢田茂中将と「人の和を最優先事項としよう。陸軍省と参謀本部は一体となって難局にあたろう」と申し合わせし、綿密な協力体制を構築して、てきぱきと事後処理していった。人事処分については独断専行して事件を拡大した関東軍とそれを抑えることができなかった参謀本部双方に処分を課すといった“喧嘩両成敗”的な処分を行ったが、関東軍参謀として事件拡大に深く関与し「事実上の関東軍司令官」とまで呼ばれた辻政信中佐を、元陸軍大臣の板垣や、参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望な人物」という陳情によって左遷的異動で済ますなど、のちに禍根を残すような処分もあった。ほかにも、膠着した日中戦争の指導など難問が山積しているなか、人の話をよく聞き、人情の機微を知り尽くして、抜群の調整能力を発揮する阿南の仕事ぶりは周囲が皆認めるところとなり、声望は日に日に増して将来の陸軍大臣との呼び声も上がるようになったが、阿南自身は「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」の信条通り、自ら政治的発言をすることはなく、政治的な動きは軍務局長の武藤章中将に一任していた。 1939年にヨーロッパで開戦した第二次世界大戦では、ナチス・ドイツ軍が快進撃中で、一旦は沈静化していた日独伊三国同盟締結を求める声が陸軍内で次第に大きくなり、ナチス・ドイツのフランス侵攻によってフランスが降伏するとその声は国民を巻き込むものに拡大した。阿南自身はナチス・ドイツを否定的に捉えていたわけではなかったが、陸海軍協調の視点から海軍が消極的な日独同盟を陸軍が積極的に提議すべきではないという方針であった。米内内閣は首相米内光政の方針により日独伊三国同盟の締結には反対であったが、陸軍内で日に日に高まる同盟推進論に「人の和」を重視する阿南と沢田も抗しきれず、7月8日に内大臣木戸幸一に、陸軍は日独伊三国同盟を推進するため、近衛文麿を首班とする内閣を要望していることを伝えて、沢田、武藤と図って陸軍大臣の畑俊六大将に辞職を進言した。畑は阿南らの進言によって7月12日に米内に書面にて辞職を申し出、米内内閣は総辞職に追い込まれた。 1940年(昭和15年)7月22日に発足した第2次近衛内閣で東條が陸軍大臣となったが、東條は阿南の実務能力を高く評価しており、東條の要請もあって陸軍次官留任となった。東條はおおらかな阿南とは対照的に神経質な性格であり最初から合わなかった。それは東條が陸軍省で最初に行った訓示でも現れており、東條は「政治的発言は陸軍大臣だけが行い、いかなる将校の発言も許さぬ」「健兵対策(兵士の健康管理)の再検討を行う」の2点を強調したが、「健兵対策」については、大臣がわざわざ言及することではなく、局長や課長級の業務であると阿南は助言したが、東條が聞き入れることなく、かたくなにこの1項を強調している。 やがて、東條はソリの合わない人物を遠ざけ、息のかかった人物を重用する恣意的な人事を行うようになり、阿南と対立するようになっていく。東條は前任の畑が決めていた人事について、阿南が実行を助言すると「高級人事については陸相たる私が一人で決める、他人の進言は無用」と叱責したこともあった。対立が決定的になったのは、阿南が互いに高く評価しあっていた陸大同期の石原に関する人事処分であり、第16師団師団長となっていた石原が、東條が1941年(昭和16年)1月8日に陸軍大臣名で示達した「戦陣訓」に対して、「師団将兵はこんなものよむべからず」「東條は己をなんと心得ているのか。どこまで増長するのか」「総司令官以下に対して精神教育の訓戒をなすとは、天皇統率の本義を蹂躙した不敵きわまる奴である」と批判したことで、東條が激怒し「石原を予備役」にすると言い出したことであった。石原の予備役編入を命じられた阿南は、これまで石原の非凡な才を高く評価してきたこともあって、日頃の温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」と東條に反論し、他の将校が見ている前で激しい議論を繰り広げている。阿南は皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王にまで頼って、この東條の恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、1941年3月に石原は師団長を更迭されて予備役に編入された。 阿南はこの事件で東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線へ赴いていった。東條は、阿南の後任の陸軍次官には木村兵太郎中将を、人事局長に冨永恭次少将、兵務局長に田中隆吉少将を任命するなど、陸軍中央は東條の息のかかった人物が主要ポストを占めることとなった。阿南は陸軍中央を離れてからも東條の人事を批判しており、「俺は東条大将とちがって、誰でも使える」と部下を選り好みする東條との違いを強調していた。阿南の人事統率の方針は「温情で統率する」という温情主義であり、部下は能力の如何に関わらず、誰でも使うことができるという自負をもっていた。
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陸軍次官
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1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局課長・額田坦に無理やり行わせる。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣の下、参謀次長・多田駿、参謀本部総務部長・中島鉄蔵、陸軍省人事局長・飯沼守と対立し、板垣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果、多田は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。
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