ノモンハン‐じけん【ノモンハン事件】
読み方:のもんはんじけん
昭和14年(1939)5〜9月にノモンハンで起こった軍事衝突事件。満州国とモンゴル人民共和国の国境で勃発した両国警備隊の交戦をきっかけに、満州国を支配していた日本と、モンゴルと相互援助協定を結んでいたソ連がそれぞれ軍を投入。大規模な戦闘に発展した。日本の関東軍は大本営の方針に反し独断でソ連領内へ戦線を拡大したが、ソ連の充実した機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けた。さらに、日本と同盟関係にあったドイツがソ連との間で独ソ不可侵条約を締結し、ソ連の兵力増強が可能となったため、大本営は作戦中止を決め、9月16日にモスクワで停戦協定が結ばれた。ロシアではハルハ河事件、モンゴルではハルハ河戦争と呼ばれる。
ノモンハン事件
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ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。1930年代に、満洲国、後に日本(大日本帝国)と、満洲国と国境を接するモンゴルを衛星国にしていたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つ。第一次(1939年5月 - 6月)と第二次(同年7月 - 9月)の二期に分かれる。満洲国とモンゴル人民共和国の国境紛争から、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト赤軍の武力衝突に発展し[19]、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。
注釈
- ^ つづりはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」。中国語では中国語: 哈勒欣河。
- ^ a b c d 一連の経過は小規模紛争期(1934年以前)、中規模紛争期(1935年 - 1936年)、大規模紛争期(1937年 - 1940年)に区分することができる[26]。
- ^ 満洲国側凌陞、モンゴル側サンボー、ダリザブなど。
- ^ 現地語発音に近い表記は「タムサクプラグ」(英語: Tamsagbulagモンゴル語: Тамцак-Булакモンゴル語: Тамсаг-булаг)。ドルノド県ハルハゴル郡に属し、後述のように本事件でのソ連軍の主要陣地となった。
- ^ 戦死者 ワルターノフ報告の戦死者4,104名に対し、20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析では9,703名と2倍以上
- ^ ソ連軍公式戦史 マルクス・レーニン主義研究所『大祖国戦争史(1941〜1945)』ではノモンハン事件でのソ連の死傷者合計を9,824名としていたが、2001年の研究ではソ連軍の死傷者合計は25,655名と約3倍だったことが判明
- ^ 緯度経度47.325746,119.520382。日本側の通称「三角山」。なお「ハルハ山」は「1031高地」の南方、緯度経度47.297592,119.563627に位置する。
- ^ 当時、三等書記官兼大使秘書官であった太田三郎は後に東郷の外交手法を「柿は熟すまで落とすな」という考え方だったと評している。一方、外務省本省の訓令が出てから実際の交渉が本格化するまでの3か月の間に多くの戦死者が出たことから、東郷に対する批判があり、当時の欧亜局長で東郷の腹心的存在でもあった西春彦は当時の情勢からソ連が早い段階で停戦交渉に応じる可能性が高く、この点に関しては納得できなかったことを回顧録『回想の日本外交』(岩波新書、1966年)の中で記している(東郷茂彦、P191-193.)。
- ^ 緯度経度47.14190,119.76647。日本側の通称「飛付山」、露軍地図ではキリル文字イタリック体表記、アルシャン西方14Km。外務省執務報告では「1417高地」。また「1340高地」は緯度経度47.080934,119.804716。日本側の通称「勝山」。
- ^ 1、南樺太と千島列島の占領 2、大連港もしくは旅順港を不凍港として使用 3、満洲鉄道の接収。
- ^ 三八式十二糎榴弾砲との合計。
- ^ 「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」23頁では押収された3.7 cm PaK 36(ラ式三七粍対戦車砲)の1937年製の弾丸と概ね同等とされており、同資料においては「タングステン」弾を他国の同種の弾丸と同等のものとして各種の計算を行っている。
- ^ 東京の国際シンポジウム記録は、ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム編『ノモンハン・ハルハ河戦争』(原書房)として出版されている。
- ^ ただし『「昭和」という国家』という著作では「ノモンハンでこれ(ソ連軍戦車のこと)と戦った日本の戦車は、一部は古い八九式中戦車でしたが、新たに開発された九七式中戦車、『チハ車』と呼ばれた戦車です。これは日本軍の誇りでした」と記述している、同様に『歴史と視点』においても「もっとも2年間前に出来上がったばかりのチハ車も、少数ながら出た」と正しい記述をしており、認識が改められた可能性もある
- ^ 戦記『レイテ戦記』の著者大岡昇平は、司馬の著作『殉死』への評論を通じ、司馬の歴史小説に対し「時々記述について、典拠を示してほしい、と思うことがある」「面白い資料だけ渡り歩いているのではないか、という危惧にとらえられる」と苦言を呈している
- ^ 司馬はソ連情報公開直後に書かれた、アルヴィン・D. クックス著『ノモンハン―草原の日ソ戦 1939〈上・下〉』を読み、来日したクックスと対談し「ノモンハン事件はいつも古くて新しいですね」「書くよりも読者の側に回ってよかったと思いました。いい本でした」と感想を述べている。
- ^ たとえば[532]、[566]
- ^ ジューコフのこのエピソードについては、語った相手がミシガン大学のロジャー・ハケット教授とする資料と、ソ連の体制側作家コンスタンチン・シーモノフであったという資料がある。ハケットは生誕地が日本の神戸であり、アメリカにおける日本史の権威でアメリカ国内で著名な歴史研究家の一人とされている。シーモノフは長年従軍記者を務めたが、従軍した最初の戦場がノモンハンで、ジューコフとはその時から面識があった
- ^ 現代日本とフィリピンを経て、たどり着いた現代のノモンハンに隠された「ノモンハン事件当時の真実」を巡るストーリー。
- ^ この紀行集の中の「ノモンハンの鉄の墓場」に、戦車の残骸等の写真も多数掲載。
出典
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:18 UTC 版)
詳細は「ノモンハン事件」を参照 1939年(昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でのモンゴル軍と満州国軍の小競り合いから、第一次ノモンハン事件が発生した。ハルハ川東岸を占領したソ蒙軍機械化部隊1500人に対して、騎兵集団から任務を交代していた日本の第23師団が山県支隊2000人を出動させて戦闘になった。日本軍は国境紛争処理要綱に従った包囲殲滅を図ったが、突破退却された。激しい空中戦も発生した。 一時は戦闘が収まったものの、ソ蒙軍が再び渡河し、6月下旬から第二次ノモンハン事件が発生した。両軍が師団規模の歩兵や、多数の戦車部隊、航空部隊を投入した本格的な近代戦となった。日本の陸軍参謀本部は越境攻撃を抑制して早期の戦闘終結を求めたが、関東軍は反撃の基本方針を変えなかった。7月中の日本軍の総攻撃は失敗し、8月下旬に大規模な増援部隊を使ったソ連軍の総攻撃が行われて、日本の第23師団は壊滅した。補給困難なフルンボイル平原でソ連軍が大規模攻撃に出る可能性は無いと判断していた関東軍司令部も、状況を見て2個師団以上を増援として送ったが、戦闘には間に合わなかった。 モスクワでの日ソ交渉の末、9月15日に停戦が実現した。その後も続いた外交交渉の結果、ほぼ停戦ラインのままの満蒙国境画定がされて、ノモンハン付近はモンゴル側の主張国境通りとなった。動員兵力は日本軍7万6千人と満軍騎兵などに対し、ソ蒙軍は8月攻勢に参加しただけで5万7千人、死傷者は日本軍1万8千人に対してソ蒙軍2万6千人に達した。 なお、同じ1939年5月27日には、アムール川方面でも満州国軍とソ連軍の交戦があり、満軍の出動させた騎兵中隊1個と砲艇2隻が全滅している(東安鎮事件)。しかし、ノモンハン事件の拡大誘発を警戒した日本の関東軍が反撃を自重したため、それ以上の戦闘は発生しなかった。
※この「ノモンハン事件」の解説は、「日ソ国境紛争」の解説の一部です。
「ノモンハン事件」を含む「日ソ国境紛争」の記事については、「日ソ国境紛争」の概要を参照ください。
ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)
「ノモンハン事件」も参照 1939年(昭和14年)4月に「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。これは作戦参謀の辻が起案し関東軍司令官・植田謙吉大将が通達したものであった。ここでは、当時国境線が明確に決定されていなかった地点において、現地司令官が自主的に国境線を認定し、衝突が発生した際には兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、「万一侵されたら機を失せず膺懲する」などの記述を辻は拡大解釈し利用することになった。 5月11日、外蒙古と満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。戦後の著書『ノモンハン』において辻は次のように記している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはいない。眼を皿のようにし、拡大鏡を以って、ハイラル南方外蒙との境界付近で、漸くノモンハンの地名をさがし出した。 この記述は『ノモンハン』の出版当時、紛争に深く関わった辻の無責任さをよく表しているとして強い批判の対象となった。 ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもゲオルギー・ジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はカンジュル廟とハロンアルシャン付近を相手空軍が越境爆撃している以上、外蒙古のタムスク航空基地爆撃を行うことは認められるとしてこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の擅権の罪 に該当する重罪であった。紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退、9月16日に日ソ間で停戦協定が成立した。 ノモンハン事件の和平交渉は12月7日から25日までソ連のチタで、続いて翌年1月7日から30日まではハルビンで行われた。1月30日には全ての交渉が終わり署名を残すのみとなっていたが、ソ連・蒙古代表団は合意を覆して1月30日に帰国してしまった。当時、満州国代表団に補佐官として加わっていた北川四郎は、当初「ロシア人は全く信用ができぬ」と憤慨していたが、会議において満州国代表を務めた外交部政務司長の亀山一二から戦後になり、辻が白系ロシア人を使って、会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフ少将と外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したことが原因であると聞いている。戦後、辻は「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」「外交もまた、負けたと思うものが、負けるのである」と記している。 ノモンハン事件では第23師団捜索隊長井置栄一中佐や歩兵第七十二連隊長酒井美喜雄大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた。辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した[信頼性要検証]。大谷敬二郎も、捕虜から帰還した将兵に辻が自殺を強要していたとの噂があったと述べている。 事件収束後、辻と、関東軍作戦課を取り仕切っていた主任参謀・服部卓四郎中佐は、辻は第11軍(漢口)司令部付、服部は歩兵学校付・教育総監部付に左遷された。
※この「ノモンハン事件」の解説は、「辻政信」の解説の一部です。
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/11 01:17 UTC 版)
「野戦重砲兵第7連隊」の記事における「ノモンハン事件」の解説
1939年(昭和14年)ノモンハン(ノモンハン事件)への出動を命ぜられた。1個中隊でソ連赤軍の砲兵数個中隊の火砲に対抗したが、零距離射撃での敵戦車との戦闘、動かぬ牽引車・自動貨車、大射角に耐え得なかった砲架等の課題を残した。
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)が断続的に発生した。 なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備を委ねていたが、日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連軍が日本軍の3倍以上の軍事力を有していた。これに対し日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。 8月に発生したノモンハン事件は満州国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。結果はソ連側が優勢なまま、第二次世界大戦が勃発した直後の9月15日に双方で戦闘終結で合意、戦闘は収まった。
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 09:33 UTC 版)
1939年(昭和14年)5月11日、ノモンハン事件が勃発すると、関東軍防疫部長として出動。7月8日から10日間、海拉爾・将軍廟方面にて防疫給水部隊を指導。 10月1日、ノモンハン事件での防疫給水への貢献が評価され、石井が長を務める関東軍防疫部は、第6軍司令官の荻洲立兵中将から部隊感状を授与され(衛生部隊としては史上初)、石井の顔写真付きで新聞報道された。
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 14:06 UTC 版)
参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。妻の秋子は、柳条湖事件の数日後に、宮崎の公舎を訪れた甘粕が帰り際に偽旗作戦として手榴弾を爆発させる現場を目撃している。 熱河作戦中に歩兵第31連隊第2大隊長に転出した。劉河口、新開嶺において5月10日夜からの連続二夜の夜襲を成功させ第8師団長(西義一)賞詞、三級金鵄勲章を受けた。部隊の内地帰還後に中佐に昇進し参謀本部支那課暗号班班長に就任した。二・二六事件を頂点とする陸軍内部での派閥抗争や、陸軍省部将校による政治への容喙に対しては完全に無関心を貫いた。 広東特務機関長、台湾軍司令部参謀、第21軍司令部参謀などを経て満州に駐屯していた歩兵第16連隊長となった。ノモンハン事件が発生すると、第2師団片山支隊に属して事件末期に連隊を率いて戦闘に参加した。ドロト湖997高地を十分な準備を経て夜襲しソ連軍部隊を退却させた。ソ連軍戦車百台以上による翌日の反撃を多大な犠牲を払いながらも撃退した。この状態で停戦が決まったが、宮崎は兵の中から石工の経験のあるものを集め、第一線にそって十数個の石碑を埋没させておいた。事件後の国境策定交渉においては、ソ連、モンゴル側が主張する境界が国境として合意されたが、16連隊の担当範囲であった南部においては宮崎の機転によって満州国・日本側に有利な境界が定められた。
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/15 16:20 UTC 版)
1939年(昭和14年)5月にノモンハン事件が起こると、関東軍は戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立て、所属していた第1戦車団基幹の安岡支隊(第1戦車団長安岡正臣中将指揮)が編成され、本連隊も戦車第3連隊とともに基幹部隊としてこれに加わった。 当初の計画では、工兵部隊の架けた橋を通りハルハ河西岸に渡り敵の背後を断って撃滅する予定であったが、工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので戦車部隊は渡ることができず、歩兵部隊が西岸に渡って退路を遮断し東岸に残った戦車部隊が北から攻撃をかけ敵を殲滅するよう作戦が変更された。作戦は7月1日に始まり、本連隊は7月2日夜に夜襲をかけ攻撃は成功をおさめた。大規模装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例であった。 しかし、翌3日には戦車第3連隊が敵防御陣地に対する正面攻撃を行い、主力の中戦車13両と軽装甲車5両を損失、さらに連隊長の吉丸清武大佐も戦死するという壊滅的な損害を被った。第23師団の第23歩兵団を基幹とする歩兵部隊は、7月2日にハルハ河の渡河を始めたがソ連増援軍が3日に戦場に到着、増援のソ連装甲部隊の砲撃により大損害を受け3日午後には次第に戦況は不利となった。このため、同行し作戦指導にあたっていた関東軍参謀副長矢野音三郎少将が撤退を指示、同夜ハルハ河東岸に戻った。第23師団は7月5日朝から攻撃を再開したが、7月10日の攻撃に失敗し戦線は膠着状態に陥った。また戦車部隊はこれ以上の損耗が許されないため、7月26日に帰還命令が出された。
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ノモンハン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 22:08 UTC 版)
1939年(昭和14年)5月にノモンハン事件が起こると、関東軍は戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立て、所属していた第1戦車団基幹の安岡支隊(第1戦車団長安岡正臣中将指揮)が編成され、本連隊も戦車第4連隊とともに基幹部隊としてこれに加わった。 当初の計画では、工兵部隊の架けた橋を通りハルハ河西岸に渡り敵の背後を断って撃滅する予定であったが、工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので戦車部隊は渡ることができず、歩兵部隊が西岸に渡って退路を遮断し東岸に残った戦車部隊が北から攻撃をかけ敵を殲滅するよう作戦が変更された。作戦は7月1日に始まり、7月2日夜に戦車第4連隊が夜襲をかけ攻撃は成功をおさめたが戦局に影響するほどのものではなかった。翌3日に本連隊は敵防御陣地に対する正面攻撃を行い主力の中戦車13両と軽装甲車5両を損失、さらに連隊長の吉丸清武大佐も戦死するという多大な損害を被った。 一方、第23師団の第23歩兵団を基幹とする歩兵部隊は、7月2日にハルハ河の渡河を始めたがソ連増援軍が3日に戦場に到着、増援のソ連装甲部隊の砲撃により大損害を受け3日午後には次第に戦況は不利となった。このため、同行し作戦指導にあたっていた関東軍参謀副長矢野音三郎少将が撤退を指示、同夜ハルハ河東岸に戻った。その後、第23師団は7月5日朝から攻撃を再開したが、7月10日の攻撃に失敗し戦線は膠着状態に陥った。また戦車部隊はこれ以上の損耗が許されないため、7月26日に帰還命令が出された。
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