事件収束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:29 UTC 版)
2月に入ると、原首相や古島の活動が活発になり、事件の主役は山縣・杉浦から移っていく。 婚約解消問題を放置するととんでもないことが起こると焦った原首相は、2月2日、中村宮内大臣とこの件で初めて会談する。原が誰かが責任を取って決定しなければならないと言うと、中村は自分が責任を持って対応すると答えた。 かかる中、床次内務大臣が山縣派の重鎮である平田東助や中村宮内大臣に婚約解消反対を説いてまわり、平田は態度を変え始めた。平田の変心は中村宮内大臣にも大きな影響を与え、自らの辞任と引き換えに婚約内定を決行する決心を固めた。また政界でも、奥衆議院議長が2月3日に、政友会の岡崎邦輔、憲政会の下岡忠治、立憲国民党の古島一雄との協議結果として婚約内定に変更ないよう原首相から中村宮内大臣に伝えるよう申し入れを行う事態に至っていた。2月4日には西園寺と原首相が会談、二人は邦彦王は一癖あり、将来外戚として干渉するのではないかという懸念を話し、原は山縣が火を付けた事件なのに、その配下である平田や中村が婚約遂行已む無しというようでは梯子を外されたようなものだと語った。 そして原首相は事態収拾に向け行動し出す。原は情報係を務めていた松本剛吉に山縣らにはっきり態度を決めるよう伝言を依頼し、松本は2月5日に山縣を訪問。山縣は「原の言う通りだ」と、血統論は放棄しないが事態を鑑みれば已む無しという姿勢をみせた。 2月8日の閣議で原首相は閣僚に宮中某重大事件の顛末について話し、事件が公のものとなる。 2月9日、中村は山縣を訪問し、このまま婚約問題が紛糾するのは皇室のためにならないため色覚異常を不問にすることを進言、これに対し山縣は反論しなかった。翌2月10日、中村宮内大臣は東京に戻り、原首相に対し、右翼・国粋主義者の騒動を鎮圧するために成婚を遂行し、自らは辞任することにしたと報告。同日午後6時、内務省警保局長川村竹治から東宮妃内定の件は変更ないと聞いていること、中村宮内大臣が辞表提出の決意をしたことが発表され、続いて午後8時に宮内省から以下の通り発表された。 良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず 翌2月11日、内田良平や右翼団体は予告通り明治神宮を参拝。久邇宮家の属官も明治神宮に現れた。杉浦も婚約が決まったことを感謝するため靖国神社を参拝し、2月13日には日本中学校で内々に祝賀会を開いた。
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