日中戦争の勃発
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「日中戦争」も参照 1937年7月の日中戦争開始後は華北に広がった日本軍占領地域との一体化を企図しての路線も建設された。1938年に開通した錦古線は、金峯寺 - 古北口を結ぶ路線で、京奉線を経由することなく関内と関外を結ぶ新路線であった。 一方開拓移民は、日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者は激減した。しかし、国策としての送出計画は何ら変更されることがなかった。1937年、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)が発足し、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満洲両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。日中戦争の始まる1937年から太平洋戦争開戦の1941年までの5年間の年平均送出数は3万5000人にのぼり、1942年までに送り込まれた農業青年は総数20万人におよんだといわれる。日本政府は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。 大規模な鉄道建設のため、1939年に満鉄の鉄道営業キロは1万kmを超えた。この時、満洲国ではパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行され、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行し、記念映画も制作された。しかし、路線計画の方はこの1万キロ超えの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして満鉄は、いわば全盛の状態で太平洋戦争を迎えることとなったのである。1940年、満鉄の資本金が14億円に増資された。
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日中戦争の勃発
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「日中戦争」も参照 1937年7月の日中戦争開始後は華北に広がった日本軍占領地域との一体化を企図しての路線も建設された。1938年に開通した錦古線は、金峯寺 - 古北口を結ぶ路線で、京奉線を経由することなく関内と関外を結ぶ新路線であった。 一方開拓移民は、日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者は激減した。しかし、国策としての送出計画は何ら変更されることがなかった。1937年、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)が発足し、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。日中戦争の始まる1937年から太平洋戦争開戦の1941年までの5年間の年平均送出数は3万5000人にのぼり、1942年までに送り込まれた農業青年は総数20万人におよんだといわれる。日本政府は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。 大規模な鉄道建設のため、1939年に満鉄の鉄道営業キロは1万kmを超えた。この時、満洲国ではパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行され、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行し、記念映画も制作された。しかし、路線計画の方はこの1万キロ超えの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして満鉄は、いわば全盛の状態で太平洋戦争を迎えることとなったのである。1940年、満鉄の資本金が14億円に増資された。
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日中戦争の勃発
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「フライング・タイガース」の記事における「日中戦争の勃発」の解説
1937年の盧溝橋事件から日本と中華民国との間では急激に緊張が高まりつつあった。両国との間では戦闘と交渉が何度も行われたが和平調停は成立せず、第二次上海事変により両国は本格的に戦闘状態(日中戦争)に突入した。戦争は1938年に入るとさらに激しさを増し、日本軍による海上封鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったポルトガル領マカオが事実上日本軍の手に渡った。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て封鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の封鎖に成功した。 国民党政府は中国内陸部の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けていたが、海上補給路を断たれた後の補給はフランス領インドシナ(=「仏印」、現ベトナム、ラオス、カンボジア)、やイギリス領ビルマ、タイ王国などから陸路と空路で細々としか行えなくなった(この「援蔣ルート(仏印ルート)」を切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施した)。 1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋頃から投入してきた日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止。南京陥落後、国民党政府の臨時首都だった重慶にも日本軍の圧力が高まった。
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