日中戦争の本格化と多田の参謀次長就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:18 UTC 版)
「多田駿」の記事における「日中戦争の本格化と多田の参謀次長就任」の解説
8月に第二次上海事変が起こると、日中両国は全面戦争の段階になる。この時期、今井清のあとをうけ、多田は参謀次長となる(石原作戦部長の推挽とされる)。多田は、石原、河辺虎四郎戦争指導課長、陸軍省の柴山兼四郎軍事課長と同じく不拡大派であった。多田と石原は、苦戦する上海への増兵を容易に認めず、華北方面でも限界線を示して事変の拡大阻止に努めた。しかし、上海では兵力の逐次投入により大損害を被り、華北では現地軍の積極論に押し切られてしまう。この結果、9月27日に石原は更迭され、関東軍の参謀副長へ転出となった(この時、関東軍の参謀長は東条英機であり、石原と鋭く対立したという。両者の確執は後の石原の処遇に暗い影を落とすことになる)。
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