戦争指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:50 UTC 版)
開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、日本はアメリカ本土攻撃やインド洋作戦を含めて各地で攻勢をかけ、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力が高いと思われ、実際にいくつか指示などもしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受けて敗北を喫した例がある。[要検証 – ノート] また、昭和天皇はときに軍部の戦略について発言することもあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。そのときの理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。これは、もしティモール島攻撃によって中立国ポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引くうえに、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。 太平洋戦争のほぼ全期間にあたる1941年9月から1945年3月まで侍従武官として仕えた陸軍軍人坪島文雄は、『服務の参考』『服務上乃参考』と題した日記をつけており、国立国会図書館憲政資料室で2022年5月27日から研究者に公開されている。この日記によると、「一部ノ敵」と思っているうちに有力部隊や飛行場が進出してくることがあるので「油断ナキ様注意セシムヘシ」(1943年1月3日)と求めたほか、同年2月3日には兵士の糧食について熱帯での保存性はどうかと尋ねている。
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