軍備増強
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さらに阿部は、アメリカ側と戦闘状態になった場合に備えて、江戸湾警備を増強すべく8月26日(嘉永6年7月23日)に江川太郎左衛門らに砲撃用の台場造営を命じた。江川は、富津-観音崎、本牧-木更津、羽田沖、品川沖の4線の防御ラインを提案していたが、予算・工期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営されることとなった。 日本は1857年の来航までにアメリカが戦争をできないことを把握し、ペリーの主張とアメリカ大統領の手紙との違う点などを割り出し、有利さを獲得しようとした。 12月14日(嘉永6年11月14日)には建造途中の1 - 3番台場の守備に川越藩、会津藩、忍藩が任ぜられた。また、大船建造の禁も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を10月21日(嘉永6年9月19日)に浦賀造船所で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去ってからわずか1週間後の7月24日(嘉永6年6月19日)には決まっている。12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し土佐藩の藩校の教授となっていたジョン万次郎を旗本格として登用し、アメリカの事情などを述べさせた。
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