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旅順攻囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/02 19:02 UTC 版)
(旅順攻撃 から転送)
旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日〜1905年(明治38年)1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順港を守る旅順要塞を日本軍が攻略し陥落させた。
- ^ 触雷沈没したのは戦艦「初瀬」「八島」。海軍は一日の内に新鋭戦艦2隻が沈没したことを公表せず、1隻沈没として発表した。
- ^ 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房、2011年)131p
- ^ 機密日露戦史第2刊 68〜69p
- ^ 機密日露戦史154p。他にも151pには期日が不明ながら軍令部参謀山下源太郎の発言として「海軍は旅順の陸上攻撃を要求しないつもりだ」というのが掲載されている。
- ^ 歴史群像アーカイブス22「日露戦争」51~52p
- ^ 歴史群像アーカイブス22「日露戦争」52p
- ^ 歴史群像アーカイブス22「日露戦争」52p
- ^ #別宮127頁
- ^ 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)14p
- ^ 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)13p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木だ第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)8p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)8〜11p
- ^ 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)16p
- ^ #別宮126頁。学研「歴史群像シリーズ24日露戦争」
- ^ #別宮127頁
- ^ 一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行なった
- ^ #別宮130頁
- ^ #別宮130頁
- ^ 月刊歴史街道2011年11月号52pより
- ^ 月刊歴史街道2011年11月号53pより
- ^ #別宮134頁
- ^ #別宮135頁
- ^ #別宮136頁
- ^ #別宮136頁
- ^ #別宮143頁
- ^ #別宮145頁
- ^ #別宮145・146頁
- ^ #別宮146頁
- ^ #別宮146頁
- ^ 撤去決定は明治37年8月5日。当初は鎮海湾と対馬へ移設する事を予定していた(「明治期国土防衛史」P530)
- ^ #別宮146・147頁
- ^ #別宮147頁
- ^ #別宮148頁
- ^ #別宮148頁
- ^ #別宮150頁
- ^ #別宮153頁
- ^ #別宮154頁
- ^ #別宮156頁
- ^ #別宮157頁
- ^ #別宮158頁
- ^ #別宮159頁
- ^ #別宮162頁
- ^ #別宮162頁
- ^ #別宮165・166頁
- ^ #別宮167頁
- ^ #別宮167頁
- ^ #別宮170頁
- ^ #別宮170~172頁
- ^ #別宮172頁
- ^ #別宮172・173頁
- ^ #別宮173頁
- ^ 歴史群像アーカイブス22「日露戦争」52p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)52p
- ^ 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』
- ^ 要塞には降伏時、兵員1万6千人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとされるが、 この兵力で25㌔に亘る要塞外周を守備するのは不可能である。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くは徹底抗戦を主張したが、ステッセリはほぼ独断で降服を決定した。そのため、戦後厳しく糾弾され(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)軍法会議で死刑を宣告されている。しかし、攻囲戦開始時に陸海軍合計6万3千の兵力を用い、戦死者1万5千・負傷者3万を損じ、戦闘可能人員が1万6千名となるまで抗戦した事、対する日本軍には戦死1万5千4百、負傷者4万5千という損害を与えた事、なにより8月19日の第一回総攻撃から降伏の1月1日まで持ちこたえ、第3軍が北方戦線に加わることを遅延せしめた事は、評価されるべきである。
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)8p
- ^ 歴史群像アーカイブス22「日露戦争」65p
- ^ 11月14日、御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満州軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日勅語を乃木に対し伝達。
- ^ 開戦後の1904年6月に現地総司令部として満州軍総司令部が設置されたが、大本営からも指令が出され続けたため、指揮系統が錯綜し第3軍に要らぬ混乱を招いた。
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)35p
- ^ 十一月二十七日、…(省略)…コノ際思切ツテ二〇三高地ニ向ヒ全力ヲココニ専注セラルルコト至極必要ト在候 (海軍軍令部編纂『極秘・明治37、38年海戦史』中の書簡)
- ^ 司馬遼太郎著「坂の上の雲」4巻25~26pなど
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)9p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)10~11p
- ^ 10月の攻撃でも203高地を一時的には占拠したが奪い返されているし、第3回総攻撃では壮烈な争奪戦の結果7回も奪い返されている 。より多くの火力・兵力を203高地に集中させれば攻防回数はより少かったと予想できるが、より多くの将卒が機関銃の前に斃れたであろうとの指摘がある。(原剛・防衛研究所客員研究員など)
- ^ 歴史群像アーカイブス日露戦争65p
- ^ 開戦は2月6日、7月12日に海軍軍令部長から参謀総長に対して旅順参戦を申し入れ、7月31日の満州軍総司令部宛の大本営通達、乃木第3軍の第1回総攻撃が8月19日。
- ^ 大正14年陸軍大学校調整、全十二巻二十一章におよぶ大著である。 表題には「日露戦史講義摘要録」と書かれているが、俗に「谷戦史」と呼ばれる。谷にはこれと別に、同年に陸大三年学生に講述した「日露戦史講義録」があるが、これとは全く趣を別にしたものである。
- ^ 主観的に「膨大」と表されることが多いが、客観的には旅順攻囲戦直後の児玉源太郎が指揮した奉天会戦における死者よりも圧倒的に(約7割)少ない。
- ^ 文芸春秋2010年12月臨時増刊号にて軍事史研究家別所芳幸が紹介した。公刊戦史の草案にあたるもので、公刊戦史編纂の際に削除された部分を知ることができる。
- ^ 例えば近年、戦史研究家長南政義氏が、大庭二郎の日記を活用し、また白井参謀、井上参謀の回想録などを駆使した論考「第三軍参謀が語る旅順戦 ~新史料「大庭二郎中佐日記」を中心に~」「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年))を発表している。
- ^ 現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)
- ^ S・ウォシュバン『乃木大将と日本人』目黒真澄訳、、講談社学術文庫、1980年(原書の刊行は1913年)
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)20p〜
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)11p
- ^ 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)152~153p
- ^ 歴史群像アーカイブス「日露戦争」65p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)52〜53p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)52p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)53p
- ^ 歴史群像アーカイブス「日露戦争」58p
- ^ ゲームジャーナル編集部「乃木第三軍司令部は無能ではなかった」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)
- ^ 歴史群像アーカイブス22「日露戦争」54p
- ^ 2月9日対地砲撃敗退、2月24日第1回港口閉塞作戦失敗、3月27日第2回港口閉塞作戦失敗、5月3日第3回港口閉塞作戦失敗
- ^ 旅順における陸軍参戦を海軍は頑なに拒んだ。日露開戦前年にようやく軍令機関として陸軍と海軍が並列対等となったことも影響していると見る向きも多い。
- ^ 大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(『日露陸戦新史』、『機密日露戦史』)。
- ^ 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)18〜19p
- ^ 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」(『坂の上の雲5つの疑問』並木書房)18〜19p
- ^ 『機密日露戦史』
- ^ 別宮暖朗 『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦』(並木書房、2005年)長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)ほか
- ^ 歴史群像アーカイブス日露戦争59p
- ^ 歴史群像アーカイブス日露戦争69p
- ^ 歴史群像アーカイブス日露戦争70p奈良武次少佐(当時は攻城砲兵司令部所属)の回想
- ^ 歴史群像アーカイブス日露戦争70p
- ^ 歴史群像アーカイブス日露戦争70p
- ^ 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)150~151p、歴史群像アーカイブス日露戦争70p
- ^ 長南政義「児玉源太郎は天才作戦家ではなかった」『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)、長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」『坂の上の雲5つの疑問』
- ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」によれば、大正12~15年頃に執筆作業をしたと推定されている
- ^ 長南政義「第三軍参謀が語る旅順戦」『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)p26,27
- ^ 明治期国土防衛史 原剛著・錦正社史学叢書」P531、P548
- ^ 「長岡外史関係文書 回顧録編(長岡外史文書研究会)」より。「機密日露戦史」もこの長岡談話を基に記述されている
- ^ 壊滅させた敵艦についても、海軍の東郷よりも陸軍の乃木の方が質的にも量的にも勝っていた(佐藤晃『太平洋に消えた勝機』)という評価も存在する。
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