作戦計画
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インド北東部マニプル州の中心都市インパールは、ビルマ・インド国境部の要地であり、イギリス軍の反攻拠点だった。第15軍司令官牟田口廉也中将は、インパールの攻略によって連合軍の反攻の機先を制し、さらにインド国民軍によってインド国土の一角に自由インド仮政府の旗を立てさせることでインド独立運動を刺激できると主張した。牟田口はさらにナガランド州ディマプルへの前進をも考えていた。これが成功すれば、ハンプ越えの援蔣ルートを絶ち、スティルウェル指揮下の米中連合軍への補給も絶つことができる。 牟田口の案は、第15軍の3個師団(第15、第31、第33師団)に3週間分の食糧を持たせてインパールを急襲し占領するというものだった。そのためには川幅1,000メートルのチンドウィン川を渡河し、標高2,000メートル級のアラカン山脈を踏破せねばならない。さらに困難な問題は作戦が長期化した場合の前線部隊への補給だった。ビルマ方面軍は当初牟田口の案を無謀と判断したが、南方軍と大本営は最終的にこの案を支持した。背景には、各方面で敗北続きの戦局を打開したいという軍中央の思惑があったと言われる。
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作戦計画
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「呉鎮守府第101特別陸戦隊」の記事における「作戦計画」の解説
当初の計画は、敵陣地に潜水艦で近づき、一人ひとりが夜間隠密に上陸、航空機を焼き払ったり、司令部に進入して幹部を殺害したりして、一挙に戦局を逆転させるものであった。しかし、大戦も末期になると米駆逐艦による哨戒網が厳しく、潜水艦航路の安全性が極端に脅かされるようになったことから断念された。 1944年12月にはアメリカ西海岸へ上陸し破壊活動をおこなうという作戦も立てられた。目的はロサンゼルス郊外のロッキード、ダグラス等の軍用機工場の破壊活動で、人目の付かないアルグエロ岬にゴムボートで上陸し山中に拠点を構築した後、車を奪いロサンゼルスへ突入するという計画だった。また、同時に大統領暗殺の作戦命令を受けたという証言者もいる。作戦に向けた本格的な訓練が行われ、1945年4月ごろには準備も整い発動を待っていたが、沖縄戦の激化のために中止となった。 代わって1945年6月末に、マリアナ諸島のB-29爆撃機破壊を目的とした「剣号作戦」が計画された。一式陸攻30機にS特隊員を乗せてサイパン島・グアム島に強行着陸し、B-29を壊滅させる計画だった。7月には陸軍の空挺部隊300名による共同攻撃と、機銃を増設した銀河72機による直前の地上攻撃も計画に加えられた。さらに8月に広島・長崎に原子爆弾が投下されると、陸軍諜報機関の情報から原爆貯蔵庫があるとされたテニアンも攻撃目標に追加されて、大規模な作戦に発展した。山岡部隊は、青森県の三沢基地に移動、作戦準備に入ったが、同年7月におきた北海道空襲の際に三沢基地も被害をうけ、作戦に使用する一式陸攻の大半が破壊されてしまったため、作戦決行日は8月19-23日に延期された。そして、出撃直前になってのポツダム宣言受諾により、作戦は中止となった。山岡部隊は、一度も実戦に投入されることなく解散した。
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作戦計画
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1945年6月、日本海航路が使用可能なうちにと、日本陸軍と日本海軍の間で「日本海ニ於ケル輸送作戦実施ニ関スル陸海軍中央協定」が結ばれ、石油強行輸送の南号作戦に倣った「日号作戦」の実行が決まった。短期間でできるだけ多くの戦略物資を輸送することが作戦目的で、当面は対馬海峡方面に護衛の重点を置くと定められた。北海道・樺太方面も作戦地域に含まれている。参加兵力は、海軍が海上護衛総司令部指揮下の第一護衛艦隊や第七艦隊、第901海軍航空隊などに属する駆逐艦・海防艦約60隻、航空機200機ほか。陸軍が第10飛行師団・第12飛行師団の各一部や各地の防空部隊など航空機約70機、高射砲200門以上などとなっている。うち黄海方面にある兵力は、華北航路を放棄して7月上旬に配備変更された。なお、護衛部隊用の燃料不足が深刻で、消費燃料の最善活用に努めることが作戦要領にも明記されていた。 輸送される戦略物資とは主に食糧関係の物資で、モロコシ(高粱)や大豆などの雑穀のほか、食用・家畜飼料用などの塩が輸送の対象となった。米の輸送はほとんどなかった。 護衛の方式は、それまで日本海では商船に航路帯内を自由航行させ、対潜艦艇で適宜哨戒する間接護衛方式がほとんどだったのを変更し、朝鮮半島北部行きの航路について護送船団を組んでの直接護衛を全面的に導入した。それ以外の朝鮮半島南部などへの航路については、引き続き間接護衛を原則としたが、一部で護送船団が編成された。 作戦の期間は陸海軍中央協定や後述の大海指第524号では明示されておらず、対馬海峡「動脈輸送路」を可能な限り長期間保持するものとなっているが、海上護衛総司令部参謀だった大井篤によると約20日間の集中輸送を行う計画であったという。
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作戦計画
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ドイツ軍の作戦計画の概要は以下の通りである。 急襲的にドビナ川を渡河してその後迅速に攻撃を敢行し、ロシア軍をプレスコウ(プスコフ)に通じる鉄道及び大街道から遮断する。 このために十分な兵力をもって東方を援護させるとともに、リガ西北方に通じる道路上で予期されるロシア軍の抵抗を打破するため迅速な前進を敢行させる。 北方に前進する兵団は、リガ橋頭堡にある露軍師団を包囲殲滅する決戦的任務を有する。 この目的を達するためには、もちろん東北方から予期されるロシア軍の増援部隊を防止する必要がある。 リガ付近にあるロシア軍予備隊の戦場到着は攻撃開始後数時間内には予期しない。 陽動の渡河攻撃は右翼フリードリヒシュタット付近で実施し、東方隣接地区における露軍を吸引する。 ウェンデン(リガ東方約80km)方面から露軍予備隊が来援するであろうが、その到着には鉄道をもって輸送するも時間がかかるであろう。
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作戦計画
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これらの問題にもかかわらずドイツ軍部指導者はジブラルタルに対する大規模作戦の準備を進めた。作戦名はフェーリックスとされ、計画にはピレネー山脈を通りスペインに入るための2個軍団を必要とした。一つはルートヴィヒ・キューブラー(英語版)中将の指揮下でスペインを通過しジブラルタルを襲撃、もう一つはルドルフ・シュミット大将の指揮でその側面を守るというものだった。フェーリックス作戦全体の指揮は陸軍元帥のヴァルター・フォン・ライヒェナウに任された。この計画はまた、北アフリカのスペイン領の占領の見込みも含んでおり、スペイン領モロッコ(英語版)、リオ・デ・オロそしてカナリア諸島の港はその後ドイツのUボートの基地として使われる予定だった。
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作戦計画
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強行着陸の計画が明確になると、すぐにイギリス第6空挺師団の司令官リチャード・ネルソン・ゲール少将は命令を受領するため、ロンドンの総司令部に呼ばれた。続く1ヶ月あまりの期間でほとんどの作戦計画が立案・準備された。 全部隊を一度に空輸することはできないため、主力部隊と小部隊に分けて空輸することとなった。上陸作戦の直前に実行されるべき最初の橋の占拠作戦は、コード名として「トンガ作戦 Operation Tonga」が選ばれた。またトンガ作戦に付随する、D-デイ夜までに実行されるべき地域の制圧作戦は「マラード作戦 Operation Mallard」(Mallard = マガモ)と名付けられた。トンガ作戦の部隊は橋の周囲の安全を確保し、さらにマラード作戦の部隊が地域を制圧したあとも、連合軍の上陸部隊のために、その地域は制圧下に置くべきとされた。 着陸・降下地点の選定は、グライダーの輸送容量と同じぐらい問題とされた。降下地点の一つAZ-Vの付近は、ディーヴ川とディヴェット川があり、川の氾濫が大きな湿地帯を作り出していたため、危険だと考えられていた。
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作戦計画
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マッカーサーは、6月29日に漢江南岸の最前線を視察した。乗機バターン号により羽田空港から飛び立ったマッカーサーはソウル南部の水原(スウォン)飛行場に着陸し、ソウル近傍まで移動した際に仁川上陸作戦の構想を自得した。マッカーサーは太平洋戦争において11回の水陸両用作戦を指揮していたことから、アメリカ軍の保持する優位な海空軍力による制海権・制空権下で北朝鮮軍の背後に迂回、補給線を遮断し南北から挟撃して一挙に攻勢転移するという作戦方針が良いと考えた。 6月30日、トルーマン大統領はアメリカ地上軍の投入を発表。北朝鮮軍の南下を阻止するために、九州に駐屯していた第24歩兵師団(ディーン少将)が先遣された。 7月4日、マッカーサーの作戦方針に基づいてアメリカ極東軍参謀長エドワード・アーモンド少将たちが計画した「ブルー・ハート計画」の準備命令が、関東地方に駐屯していた第1騎兵師団に対し下達された。この作戦は7月22日ごろに仁川上陸を実行する予定で、第1騎兵師団は7月6日に横浜で乗船を開始した。 アメリカ軍は北朝鮮軍を「アメリカ軍の姿を見れば逃げ散る東洋の土匪」程度に予想していた。しかし、赤軍・紅軍帰りの将校に指揮され、ソ連製のT-34戦車を押し立ててくる北朝鮮軍に対し有効な対戦車兵器を持たない第24歩兵師団は大損害を受け、関西地方に駐屯していた第25歩兵師団(キーン少将)も増派したが北朝鮮軍を押しとどめることは出来なかった。戦況の悪化から、7月10日、マッカーサーはブルー・ハート計画を断念、第1騎兵師団は第8軍の増援として釜山北方の浦項(ポハン)に向かい、7月18日に朝鮮半島に上陸して防御戦闘に加わった。 マッカーサーはブルー・ハート計画を廃止したのちも、陸海空軍から集めた上陸作戦の専門家で統合戦略計画作戦班を編成して作戦立案を続行させ、7月23日に「クロマイト計画」として発案された。これは北朝鮮軍を阻止している第8軍と連携して、9月中旬に第1海兵旅団(第5海兵連隊基幹)と第2歩兵師団を朝鮮半島の三か所いずれかに上陸させる計画であった。三案はそれぞれ、仁川(インチョン)への上陸を「100-B計画」、仁川の南方150キロメートルの群山(クンサン)への上陸を「100-C計画」、朝鮮半島東岸の注文津(チュムンジン)への上陸を「100-D計画」とされた。 ところが8月5日から開始された北朝鮮軍の大攻勢(8月攻勢)によって第8軍は戦力不足が深刻化し、上陸作戦予定兵力の第1海兵旅団と第2歩兵師団を第8軍の増援のために釜山に派遣することになった。しかし上陸作戦の延期を行うことはそれ以上できなかった。 釜山橋頭堡の防御戦が長期化すると第8軍の疲弊によって戦線が突破される危険性が増大する。 仁川に大量の機雷が敷設されると上陸作戦が出来なくなる。 米の収穫期である10月までに半島南部の肥沃な耕作地を奪回しなければ北朝鮮軍が多大な農作物を入手してしまう。 などの軍事的必要から仁川上陸作戦は決心された。 8月12日、マッカーサーはクロマイト100-B計画、すなわち仁川上陸作戦計画の発動を下令した。上陸予定日は1ヵ月後の9月15日であり、上陸部隊はアメリカ本土で編成中の第1海兵師団および日本駐留の第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部とされ、攻撃目標は仁川・ソウル地区と明示された。8月15日にはクロマイト計画の立案にたずさわった統合戦略計画作戦班の要員により第10軍団司令部が編成され、8月26日に正式に軍団長アーモンド少将の指揮権の発動が下令された。これはアーモンド少将がアメリカ極東軍兼国連軍参謀長の職を兼ねたまま第10軍団を指揮する異例の人事であった。 アメリカ海兵隊は急速な動員を求められた。アメリカ東海岸の第2海兵師団や欧州などから集めた正規兵を第1海兵師団に転属し、予備役10,000名以上が召集された。1か月に満たない期間で部隊の編成が行われ、それでも足らずに地中海にいた部隊からも転用され、第7海兵連隊第3大隊となる海兵大隊は、8月16日にクレタ島を出帆し、9月9日に釜山に到着する予定だった。 第7歩兵師団は多数の人員を朝鮮半島の前線部隊に引き抜かれたことで9,000人の定員不足があったが、釜山で徴募された韓国人による韓国軍兵士8,000人が横浜に上陸し、アメリカ軍に編入することで寄せ集めながらも人数を揃え、訓練を行った。
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作戦計画
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1944年3月3日、軍令部総長の嶋田繁太郎大将は、及川古志郎海上護衛総司令部司令長官および古賀峯一連合艦隊司令長官に対し、松1号から松4号までの船団護衛を発令した(大海指第346号)。3月22日付の大海指第357号と5月6日付の大海指第376号により、松5号から松8号船団が追加されている。「松輸送」という作戦名は松竹梅にちなんで命名されたもので、同時期の西部ニューギニア方面への増援部隊輸送作戦については「竹輸送」の作戦名が充てられている。加えて、同盟国ドイツからの封鎖突破船(秘匿名称「柳船」)の成功にあやかった命名にもなっていた。 この種の純然たる作戦輸送は従来は連合艦隊の管轄であったが、松輸送については通商保護を専門とする新設の海上護衛総司令部が管轄することになった。3月7日、海上護衛総司令部は大海指第346号を踏まえて、松輸送を2種の航路で運航する命令を発した。マリアナ諸島およびカロリン諸島東部への増援については東京湾からトラック島に至る太平洋航路、カロリン諸島西部への増援については門司から台湾経由でパラオに至る航路を利用するものとし、前者を東松船団、後者を西松船団と呼ぶことになった。そして、東松船団の護衛は横須賀鎮守府、西松船団の護衛は第一海上護衛隊の担当とされた。 海上護衛総司令部は第901航空隊の一部を横須賀鎮守府の指揮下に入れるなど護衛戦力の再配置を実施したほか、連合艦隊からも多数の戦力が応援として加わることになった。連合艦隊は、海上護衛総司令部への護衛協力には消極的であったが、松輸送は決戦準備の作戦輸送ということで積極的に取り組んだ。3月中に連合艦隊から海上護衛総司令部の指揮下に移された艦艇は、軽巡洋艦1隻・駆逐艦10隻・海防艦3隻・その他3隻にのぼった。 東松船団の運航に関しては、日本では異例の大規模な護送船団の編成が行われることになった。運航効率より護衛兵力の集中を重視した大船団主義の採用は海上護衛総司令部で以前から検討されていたが、連合艦隊の護衛戦力融通や同年2月のヒ40船団壊滅の戦訓により、実現に至ったのである。大規模船団を運用するには海上護衛総司令部手持ちの高級指揮官人材が不足したため、4月1日に少将級の人材をストックする特設護衛船団司令部制度が創設されたほか、連合艦隊も第11水雷戦隊司令部を旗艦の軽巡龍田ごと提供した。 主要な輸送対象部隊は、陸軍の第14師団(パラオ守備)と第43師団(サイパン守備)の各主力、第35師団の第一次輸送部隊(パラオ守備)、ロ号演習の秘匿名で関東軍・朝鮮軍の諸部隊から抽出された第1派遣隊-第8派遣隊、戦車第9連隊などであった。第29師団の輸送船沈没時に師団長が同行しておらず混乱を生じた教訓から、非常時に備えて各部隊指揮官も空路は使わず、海路で同行するものと定められた。多量の弾薬や食糧、セメントなどの築城資材も同時に運ばれた。海軍も、沿岸砲や高射砲を装備した陸戦隊や飛行場・陣地建設用の海軍設営隊、基地航空隊の地上要員などを輸送した。なお、帰路では日本本土へ避難する民間人も多く便乗している。 上記の陸軍部隊の派遣に関し、東條英機陸軍大臣兼参謀総長は情勢を見て輸送船一隻ごとに慎重な判断をし、不可能と見れば直ちに中止すると言明していた。これは、参謀本部主導の陸軍部隊追加派遣に対し陸軍省側は手遅れで危険だと反対していたため、双方に配慮した方針だった。
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作戦計画
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詳細は「コブラ作戦の戦闘序列」を参照 コブラ作戦の発案者については未だ議論がある。モントゴメリーの公式伝記著者によれば、コブラ作戦の原案は6月13日に立てられた。計画策定には、ドイツ軍最高司令部と将軍たちとの間の通信を解読し、日々提供されるウルトラ(英語版)情報が大いに活用された。その時点のモントゴメリーの計画は、ブラッドレーの第1軍にサン=ローとクタンスを占領させ、そこから南へ二手に分かれ、一つはコーモン=レヴォンテからヴィールおよびモルテンへ、もう一つは、サン=ローからヴィルデュ・レ・ポエル(英語版)およびアヴランシュへ向けて進撃するものであった。コタンタン半島ではラ・アイユ=デュ=ピュイ(英語版)からヴァローニュ(英語版)にかけて圧力をかけ続けたが、シェルブールの占領は最優先ではなかった。しかし6月27日にコリンズの第7軍団がシェルブールを占領すると、モントゴメリーの日程計画は白紙に戻り、コーモン=レヴォンテからの攻撃は中止となった。 チャーンウッド作戦が終了し、サン=ローへの第1軍の攻勢が中止になった後、7月10日にモントゴメリーはブラッドレーおよびデンプシーと会い、第21軍集団(英語版)の今後の行動について議論した。会議の中で、ブラッドレーは西部戦区の進撃が遅いことを認めた。しかし、ブラッドレーは、7月18日開始予定の第1軍による突破作戦、コードネーム「コブラ作戦」計画を策定中であった。ブラッドレーは計画をモントゴメリーに説明し賛同を得て、会議での指示により、今後数日間の全体戦略はドイツ軍の注意を第1軍からイギリス・カナダ軍戦区へ引き離すことにあることが明確となった。デンプシーは、「攻撃継続:ドイツ軍、特に装甲部隊を我々に引きつける。ブラッドレーがやりやすくなるように。」と命令した。この目的のため、グッドウッド作戦が計画され、アイゼンハワーは両作戦に対し戦略爆撃機による支援爆撃を行うことを確約した。 7月12日、ブラッドレーは配下の指揮官に、3段階からなるコブラ計画を説明した。作戦の中核はコリンズの第7軍団が担った。第1段階では、マントン・エディ少将の第9歩兵師団(英語版)とリーランド・ホッブズ(英語版)少将の第30歩兵師団(英語版)が突破攻撃を行いドイツ軍の戦線に穴を開け、クラレンス・ヒュブナー(英語版)少将の第1歩兵師団とエドワード・ブルックス(英語版)少将の第2機甲師団(英語版)が抵抗が止むまで侵攻する間、その側面を守る。クタンスに向って南へ進撃するワトソンの第3機甲師団の展開を視野に入れ、第1歩兵師団はマリニーを占領する。第2機甲師団 -第7軍団の東側にいた第2機甲師団の「コリンズの展開部隊(Collins' exploitation force)」の一部と「西側にいた第3機甲師団のB戦闘団(英語版)(CCB)の増援を受けた第1歩兵師団」- が、第30歩兵師団の戦区を越えて・・・アメリカ軍左翼全体を守備する。もし第7軍団の作戦が成功すれば西部のドイツ軍は戦線を維持することができず、ボカージュの南西端へ比較的容易に進撃が可能となり、ブルターニュ半島を分断、奪取できる。第1軍の情報部門は、コブラ作戦開始後の最初の数日間にドイツ軍が反撃を行う可能性はなく、その後、攻撃が行われたとしても、それは大隊規模を超えないと予測していた。 コブラ作戦は、従来のアメリカ軍の「広い戦闘正面幅」の攻勢と異なり、7,000ヤード (6,400 m)の戦闘正面での集中攻撃を、大規模な航空支援を受けて実施するものであった。戦闘爆撃機がサン=ロー・ペリエ街道のすぐ南の幅250ヤード (230 m)にいるドイツ軍守備隊を目標とし、カール・スパーツの重爆撃機隊がドイツ軍前線の2,500ヤード (2,300 m)後方を爆撃する。短時間の激しい準備爆撃による物理的な破壊と衝撃がドイツ軍の守備を弱体化することが期待され、師団砲兵に加えて、9個重砲兵、5個中砲兵、7個軽砲兵大隊を含む、軍および軍団砲兵も支援を行った。1,000門を超える師団および軍団砲兵が攻勢に投入され、砲弾は第7軍団だけでほぼ140,000発、そのほか第8軍団に27,000発が割り当てられた。 両軍にとって攻撃作戦を困難かつ損害の多いものにしていたボカージュの障害を除去するため、M4シャーマン戦車、M5A1スチュワート戦車、M10駆逐戦車に、生垣を倒して道を作る「牙」を取り付けた「ライノ(犀)戦車(英語版)」への改造が行われた。実際には、この装置は一般に信じられているほどには有効ではなかったが、ドイツ軍の戦車が道路の制約を受け続けたのに対し、アメリカ軍の車両はより自由な行動が可能となった。とはいえ、コブラ作戦の直前には、第1軍の戦車の6割がこの装置を付けていた。作戦上の機密を守るため、ブラッドレーは、コブラ作戦開始までライノ戦車の使用を禁止した。合計、M4中戦車1,269両、M5A1軽戦車694両、M10駆逐戦車288両が投入された。
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作戦計画
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「タイダルウェーブ作戦」の記事における「作戦計画」の解説
1943年3月、合衆国陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは、プロイェシュティ油田爆撃作戦の計画立案をその幕僚のヤコブ・スマート (Jacob E. Smart) 大佐に指示した。策定された作戦計画は、超低空飛行により標的の油田、製油施設を爆撃するというものであった。また、これに使用する爆撃機は超低空での運動性、航続距離及び爆弾搭載量に優れた B-24 が選定された。1943年5月のワシントンにおけるルーズベルトとチャーチルの会談でイギリス空軍の参加も提案されたが、イギリス空軍機と混成では整備、補給で問題があるとして合衆国陸軍航空軍単独での実施となった。当初作戦名は「ソープサッズ(石鹸の泡)作戦」であったが、チャーチルの発案で変更することとなり、6月30日「タイダルウェーブ(津波)作戦」と命名された。 作戦参加部隊には北アフリカの第9航空軍から第98及び第376爆撃航空群 (376th Bombardment Group) が選定され、さらにイギリス本土の第8航空軍から第44、第93 (93d Operations Group) 及び第389爆撃航空群が加えられた。これらイギリス本土からの3個爆撃航空群は6月下旬にベンガジへ到着した。 飛行経路の往路は、ベンガジ近郊の飛行場群を発進し、北東方向のリビア領トクラから地中海を北上してケルキラ島(コルフ島)で北東に進み、ギリシャ、アルバニア国境のピンドス山脈を越えてユーゴスラビア南部からルーマニアへ侵入し、ワラキア平原へ出て、ピテシュティ付近から高度 30m の超低空飛行でプロイェシュティとカンピーナ (Câmpina) (第389爆撃航空群が割り当てられた目標)へ向かい、復路はほぼその逆をたどる経路が設定された。 作戦参加部隊に割り当てられた爆撃目標は次のとおりだった。 第376爆撃航空群 ロマーナ・アメリカーナ (Româno-Americană) 精油所 第93爆撃航空群 コンコルディア・ヴェガ (Concordia Vega) 精油所及びユニリア・スペランツァ (Unirea Speranța)、スタンダード・ペトロール (Standard Petrol) 複合精油所 第98爆撃航空群 アストロ・ロマーナ (Astra Română)、オリオン (Orion) 複合精油所 第44爆撃航空群 コロンビア・アキラ (Columbia Aquila) 精油所及びクレディトル・ミニアー (Creditul Minier) 精油所 第389爆撃航空群 カンピーナのステアウア・ロマーナ (Steaua Româna) 精油所 第389爆撃航空群以外の4個群は、プロイェシュティの北西方向から南東方向へ抜ける経路で目標に対し爆撃を行う経路であった。 第9航空軍幕僚長兼第9爆撃兵団長のウザル・エント准将が指揮官となり、作戦部隊の先頭を飛ぶ第376爆撃航空群の指揮官機に搭乗することとなった。
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作戦計画
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8時に帰宅。食事と仕事。来週にアイスランド征服を計画すること。十中八九遅すぎる! 何羽かのアヒルの子の群れを見た。 — アレクサンダー・カドーガン、1940年5月4日の日記の最後より ノルウェーの戦況は悪化し、イギリス海軍本部は、もはやアイスランドに基地無くしては済まないという結論に達した。5月6日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは戦時内閣に状況を説明した。チャーチルは、アイスランドとの交渉をこれ以上続けるならば、ドイツがそれを知って先手を打ってくると主張した。より確実かつ効果的な解決策は、事前の通告なしに軍隊を上陸させ、“既成事実”としてアイスランド政府に突きつけることだった。内閣はそれに同意した。その侵攻は場当たり的に準備され、作戦内容のほとんどは現地へ行く途上で計画された。侵攻部隊には数枚の粗末な地図しか与えられず、その中の一つに至っては誰かの記憶を元に描かれていた。また、アイスランド語に堪能な者は一人もいなかった。イギリス軍の計画では、全部隊がレイキャヴィークに上陸することとなった。そこで、 あらゆる抵抗を排除し、現地のドイツ人を監視下におく。 ドイツ軍の海からの反撃に対応するため港を占拠し、部隊の一部を隣接するクヴァルフィヨルズゥルに陸路で送る。 また、北欧侵攻で大きな戦果を上げたドイツ軍の空挺部隊にも憂慮していたため、 部隊の一部を上陸地点の東、カルダザルネースとサンドスケイズに移動させる。 部隊の一部を陸路で北方のアークレイリ港と予想降下地点メルゲルズィ(Melgerði)へ送る。 とされた。海軍情報部(NID)は3つの有力な情報源からなんらかの抵抗があると予想していた。現地のドイツ人の何人かは武器を持っていると考えられており、抵抗するか、さもなくばある種のクーデターを起こすことさえ考えられた。さらに、ドイツ軍侵攻部隊が既にアイスランドへの途上にあるか、あるいはイギリス軍上陸後直ちに出動するかも知れなかった。また、約70名の武装した隊員で構成されたレイキャヴィーク警察の抵抗も予想された。偶然デンマークの巡視艇がレイキャヴィークにいた場合、デンマーク水兵は守備隊を支援するかも知れなかった。
※この「作戦計画」の解説は、「アイスランド侵攻」の解説の一部です。
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作戦計画
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作戦コード「アイリーン」 ナイトストーカーズが航空支援を担当し、以下の機種が投入される。MH-60 ブラックホーク OH-6 カイユース MH-6/AH-6 リトルバード - OH-6の特殊部隊向けモデル。 侵入タスクフォースレンジャーは、ブラックホークから迅速に目標ビルに降下し、建物の四隅を占拠し目標周辺の安全を確保する。 デルタフォースは、リトルバードから建物内に突入し、生きたまま対象人物を捕らえる。 離脱ハンヴィーの車両部隊が、全員を収容する。 ナイトストーカーズが空から支援する。 作戦開始後の数分間、4組のチョーク(積載班、ヘリコプターへの搭乗を前提として編成された戦闘班の意)から成るレンジャーが作戦対象のビルの四隅に展開し、安全地帯を確保する事に成功したものの、ソマリア人の住民や民兵の手により、ハンヴィーで構成された地上部隊が安全地帯に辿り着けないように、岩や火のついたタイヤを用いてモガディシュの通りにバリケードが作られていた。 モガディシュ街路の上空70フィート(約21メートル)でホバリングするヘリコプターから米軍のレンジャー、及び、デルタフォースが降下、民兵のリーダーたちを捕らえるという任務を順調に達成したが、長時間に渡る遅延の間に、数分後にはソマリア民兵によってMH-60 ブラックホーク1機が撃墜された。 ブラックホークによる急襲部隊と車両から展開した地上部隊は互いを視認できないまま20分間ひたすらに戦線を維持していたが、何とか接触する事に成功する。だが、この直後に2機目のブラックホーク(スーパー64)が撃墜された。この際、デルタフォースの2人の狙撃員、ランディ・シュガート一等軍曹とゲーリー・ゴードン曹長が、近づきつつある民兵たちから負傷したブラックホークのパイロット(マイケル・デュラント准尉)を守るために地上に降下した。民兵の規模や攻撃の危険を知りつつ、また、統合タスクフォース指令センターからヘリにとどまった方がよいと助言されながらも、躊躇することなく地上に降下したその決断力からベトナム戦争以来の名誉勲章を授与された。しかし、両兵士とも数で勝る民兵たちによって殺害されている。 地上部隊はやがて最初の墜落地点に到着した。約90人のレンジャーたちは激しい銃撃によって包囲された。航空支援が十分に受けられない状況下で、次の日の早朝に米軍第10山岳師団やマレーシアとパキスタンの国連部隊が救援に来るまで、レンジャーたちは夜通し戦い続けた。他の国連部隊による救援の計画や調整は作戦の困難さを考慮しながら行われたため、時間がかかった。 兵士たちの話によると、戦闘が続くにつれてアイディード派の民兵たちは兵士を遮蔽するために市民を彼らの前に押し出していた。しかしながら、アメリカ軍兵士が民兵を隠すような市民を何度もためらわずに射殺したため、市民による遮蔽は減った。また、少数の米兵(車両)を多数で挟み銃撃し、その流れ弾による同士討ちも多数目撃されている。 翌10月4日午前6時30分、米軍は国連のパキスタン・スタジアムに引き上げてきた。米兵18人が死亡・74人が負傷(後に1人死亡)、国連軍兵2人が死亡・9人が負傷していた。 この戦闘は、ソマリアの国連活動の中でアメリカ軍が直面したもっとも激しい市街戦のうちの1つであった。また、この戦いの後、死亡した米兵(上記の降下した2名とブラックホークの乗員)の遺体が裸にされ、住民に引きずり回されるという悲惨な映像が公開され、アメリカのニュース番組で放映された(後に身体を切断された状態で発見される)。これに衝撃を受けたアメリカ国民の間で撤退論が高まった。アメリカ世論を背景にビル・クリントンは1994年、ソマリアからの撤兵を決定したが、この戦闘が平和維持活動から撤退したことの理由の1つとして挙げられている。また、クリントンはこの作戦の痛手によって、その後は地上軍の派遣を渋り、ミサイルや航空機によるハイテク戦争への方向を推し進めていく。 この作戦の初期の目的は達成されたため「作戦上は成功」であったが、当初30分程度で終了する予定の任務が夜をまたいで15時間にもおよび、多くの犠牲を出した。
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作戦計画
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在韓米軍には、その時局に応じて起こりうる有事を想定した作戦が存在していた。これらの作戦は、立案後に締結される条約や共同宣言など社会情勢の変化により、現在では失効しているものもあると考えられている。ごく簡単にまとめると次のようになる。 作戦計画5026:朝鮮民主主義人民共和国の核開発が問題になった1990年代に立案された作戦。核施設などをピンポイント爆撃する。 作戦計画5027:朝鮮人民軍が南下して全面戦争となった場合、米韓連合軍が積極的に攻勢にでて朝鮮半島統一を成し遂げる。(それまでは後退しつつ反撃の機会を待つ作戦が採用されていた。) 作戦計画5028:欠番とされている。 作戦計画5029:1999年に立案された作戦。朝鮮民主主義人民共和国が内部混乱に陥った場合に軍事介入を行う。 作戦計画5030:2003年に立案された作戦。軍事介入というより、クーデターなどを誘発させる諜報・工作作戦。
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作戦計画
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“ツィタデレ(城塞)”作戦発動は1943年5月3日と予定されたが、これには保留条項があり、結果的には行われず、逆にヒトラーは、5月3日にミュンヘンに軍の高級幹部を集めて会議を開き、前日にヴァルター・モーデル元帥から敵陣地の対戦車防御組織が非常に強化されているとの話を受けて、さらに装甲兵力(戦車)を増強することが必要だと考え、6月10日まで作戦を延期することを主張した。しかし、この会議に参加した中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥と南方軍集団司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、延期すればソ連軍はドイツ軍以上に戦力を増強して態勢を整えるとして延期に反対し、さらにマンシュタインは、ドイツの北アフリカ前線は破綻しており、北アフリカが陥落して、その後、西側連合軍がヨーロッパに上陸したら、作戦自体が成立しなくなると主張した。また、ハインツ・グデーリアン上級大将は、作戦放棄論を主張し、その中で、投入される新型のパンター戦車には多くの初期欠陥があり、攻撃予定日までに改善できないと発言し、アルベルト・シュペーア軍需大臣もこれに同調した。しかし、ヒトラーは、北アフリカ戦線はチュニスへの増援が可能であり、西側連合軍のヨーロッパ上陸も、6-8週間はかかるだろうと考えており、6月中は北アフリカのことは考える必要は無いと判断して、自分の意見は変えなかった。その後、この会議では何も決まらず散会となったが、5月11日には6月中旬まで作戦延期が決定された。その2日後の5月13日には、チュニスで、北アフリカのドイツ・イタリア軍は降伏してしまい、ヨーロッパ南岸への連合軍の上陸作戦はより現実味を帯びることになった。しかし、延期されていた6月中旬になっても、作戦は発動されず、7月1日にヒトラーは、東プロイセンの総統大本営に全軍の司令官と軍団長を招集して、作戦開始を7月5日と最終的に決めた。ヒトラーもまた不利を察し、「クルスクのことを考えると、気分が悪くなってくる」という内心を吐露している。
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作戦計画
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作戦計画は、2段階になっており、第一段階で、ドン河湾曲部西岸のソ連軍を撃破し渡河点を確保し、第二段階では、攻勢軸を2つにわけ、ひとつはスターリングラード周辺でボルガ河西岸に到達する事(のちのB軍集団)、もうひとつは、コーカサス地方をはるかに南下しバクー油田を占領する事(のちのA軍集団)が、目標とされた。 ドイツ軍の将軍の間では、補給能力限界や4000m級の山岳が連なるカフカス山脈を超えてのバクーまでの進撃の困難さをあげ、この案には反対の者が多かったが、ヒトラーは、押し切った。
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作戦計画
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1973年10月6日にエジプト・シリア両軍の奇襲攻撃により第四次中東戦争が勃発した。イスラエル空軍は2時間後に反撃を開始し、スエズ運河を渡河したエジプト軍とゴラン高原から侵攻したシリア軍を空爆したが、濃密な防空網によって初日だけで30機が撃墜された。 エジプト軍は、S-75(NATOコードネーム:SA-2 ガイドライン)及びS-125(NATOコードネーム:SA-3 ゴア)地対空ミサイル陣地をスエズ運河沿いに設置し、中・低高度防空には2K12(NATOコードネーム:SA-6 ゲインフル)地対空ミサイル、ZSU-23-4自走高射機関砲、9K32(NATOコードネーム:SA-7 ストレラ)携帯式地対空ミサイルを用いて多段階の防空網を構築していた。 10月6日の夕方から夜にかけてイスラエル空軍は、翌7日朝にスエズ運河正面のエジプト軍に対する攻撃を検討、第一段階で地対空ミサイル陣地を防衛する対空火器及びエジプト国内の空軍基地数箇所を攻撃対象とし、第二段階で地対空ミサイル陣地を攻撃する計画とした。
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作戦計画
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9月26日の段階で南西太平洋方面軍(主に第7艦隊)向けに発令された作戦計画13-44について、冒頭主要部を日本語に翻訳すると概ね次のようになる。詳細は計15の別紙に記載されている。日程的にも第2段階以降のものであり、主な記述は第3段階となる。作戦の計画文書は連合陸海軍(Combined Allied Naval Forces,CANF)、南西太平洋軍(Southwest Pacific Area,SWPA)の連名となっており、マスケティーアからの継続性が見て取れる。別紙の作戦要領、日程等に示されているがA-dayは10月20日を示している。この編制は9月26日時点のものであり、細部では実際の作戦時と異なる部分もある。第3艦隊についてはレイテ沖海戦#戦闘序列(連合軍)のを参照のこと。 第77任務部隊司令官 MUSKETEERKING II 連合陸海軍(Combined Allied Naval Forces,CANF)南西太平洋方面軍(Southwest Pacific Area, SWPA)- 作戦計画 13-44 注意 あらゆる予防措置をとり、この計画が敵中に落ちる事を防止すること。もし艦船に拿捕或いは亡失が差し迫った際には、この計画は完全に破棄される。 軍機 A4-3(6)Serial: 00022軍機 連合国海軍部隊司令官、SWPA並びに 第7艦隊司令官中部フィリピン攻撃軍第77任務部隊軍司令部ホーランディア、蘭領ニューギニア1944年9月26日1200時 作戦計画CANF, SWPA NO. 13-44 任務組織 軍隊区分は別紙"A"に記載。77.1 指揮群77.1.1 艦隊旗艦部隊 グラナム(GRANUM)海軍大佐揚陸指揮艦(AGC)1、 駆逐艦(DD)277.1.2 巡洋艦部隊 コニー(CONEY)海軍大佐 軽巡洋艦(CL)1 、駆逐艦(DD) 2司令官支援用航空機、中部フィリピン攻撃軍 ホワイトヘッド(WHITEHEAD)海軍大佐 78. 北部攻撃部隊 バーベイ(BARBEY)海軍少将 揚陸指揮艦(AGC)1 揚陸指揮艦(RAGC)2 攻撃兵員輸送艦(APA)17 兵員輸送艦(AP)4 高速輸送艦(APD)5 攻撃貨物輸送艦(AKA)4 貨物輸送艦(AK)2 駆逐艦(DD)12 ドック型揚陸艦(LSD)5 歩兵揚陸艦(LSI)3 中型揚陸艦(LSM)12 戦車揚陸艦(LST)95 一等機雷敷設艦(CM)1 艦隊航洋曳船(ATF)2 UDT 6 多用途、護衛並びに哨戒用艦艇支援群 両用作戦配属、駆逐艦(DD)12 79. 南部攻撃部隊 ウィルキンソン(WILKINSON)海軍中将 揚陸指揮艦(AGC) 3 攻撃兵員輸送艦(APA)21 兵員輸送艦(AP)5 避難用輸送艦(APH)1 車両揚陸艦(LSV)2 攻撃貨物輸送艦(AKA)6 貨物輸送艦(AK)2 ドック型揚陸艦(LSD)5 中型揚陸艦(LSM)6 戦車揚陸艦(LST)55 駆逐艦(DD)28 艦隊航洋曳船(ATF)3 救難艦(ARS)2 揚陸艇工作艦(ARL)1 多用途、護衛並びに哨戒用艦艇 77.2 爆撃・砲火支援群 オルデンドルフ(OLDENDORF)海軍少将 77.2.1 砲火支援群(北) ウェイラー(WEYLER)少将旧式戦艦(Old Battleship,OBB)3 駆逐艦(DD)3 77.2.2 砲火支援群(南) オルデンドルフ(OLDENDORF)海軍少将旧式戦艦(OBB)3 重巡洋艦(CA)3 軽巡洋艦(CL)3 駆逐艦(DD)13 小型水上機母艦(AVP)1 77.3 近接援護群 バーケイ(BERKEY)海軍少将重巡洋艦(CA:Royal Australian Navy,RAN)2 軽巡洋艦(CL)2 駆逐艦(DD)7 77.4 護衛空母群 T.L.スプレイグ(T.L. SPRAGUE)海軍少将護衛空母(CVE)18 駆逐艦(DD)9 護衛駆逐艦(DE)14 77.5 掃海・測量群 ラウド海軍中佐77.5.1 敷設駆逐艦(DM)2 掃海艇(AM)10 掃海駆逐艦(DMS)7 機動掃海艇(YMS)24 高速輸送艦(APD)1 77.5.2 第7艦隊より配属した測量調査船 海軍中佐 77.6 海岸処分群 - 少佐高速輸送艦(APD)11、水中処分船(UDT)12 77.7 役務群 グローバー(GLOVER)海軍少将各部隊に配属。 注意 記載箇所で A. 中部フィリピン攻撃軍指揮官は南西太平洋方面連合海軍指揮官と読み替えること。B. 作戦計画1-44については作戦計画13-44と読み替えること。C. 通信計画1-44については作戦計画4-44と読み替えること。全般状況 連合軍は次の線: マリアナ-ウルシー-パラオ-モロタイに沿って占領しており、そして東部よりフィリピンに向けた諸処の進出を調整している。空母並びに沿岸の基地航空機による攻撃は、フィリピンの敵航空部隊を著しく減勢させている。日本がフィリピンに配置した航空部隊は消耗した状態に陥っており、それは我が方の艦載機が持つ能力により、特定の地域の制空権を確立することが、東部フィリピンの沿岸一帯のどの地点においても可能だからである。航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船腹に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている。敵軍 (敵情は別紙Nを参照) 日本の主力艦艇の正確な配置は不明であるが、戦力見積もりとしては空母10隻、戦艦5隻が本土近海に、空母1隻、戦艦4隻がマレー水域に在ると見られる。 主に護衛目的の魚雷艇から成る小部隊は、フィリピン群島の閉塞された水域で主要な守備兵力を成している。 レイテ湾水域、レイテ島東岸、並びにフィリピンの遮蔽された水域の大半は機雷敷設済みないしは敷設が進みつつある。 フィリピン諸島は蜂の巣状になっている為広範囲に網の目のように航空基地が在り、敵は遠方の基地から攻撃をかける際の中継地としてこれらを活用することが出来る。 52の作戦可能な航空基地がレイテのタクロバンから半径360マイル以内に存在する。100マイル以内に在る主要な基地群は、ネグロスに3箇所、パネー(PANAY)に2箇所、セブに1箇所、レガスピーに1箇所、そしてカガヤン・デル モンテ(CAGAYAN-DEL MONTE)地区に3箇所である。 日本の陸上、海上、航空兵力で中部フィリピンに配置した部隊の主力は、セブ-ロス ネグロス-パネー地区に集中している。 敵陸軍はレイテ島に戦闘部隊12,000名を4000名の輜重兵と共に配置していると見積られている。これらの部隊は主にタクロバンおよびドラグ地区に参集している。装備には戦車と自走砲が与えられており、固定砲台は付近の浜を射界に収め防戦支援が可能なように配置されている。 現在のところ確実な情報ではないが、レイテ島東岸の浜辺は、有刺鉄線、障害物、地雷により防御されていると思われる。 サマール島は凡そ4000名の陸兵により保持され、主としてカルバヨグ(CALBAYOG)-カトゥバロガン(CATBALOGAN)地区に集結していると推定されている。 我が軍 (別紙"B":作戦要領を見よ) 親米的なフィリピンゲリラ部隊が組織され、武装し、軍として機能しており、レイテ島の山岳地帯に潜んでいる。 想定 敵は利用可能な全ての手段を用いてフィリピンでの上陸地を目標として反撃するであろう。 敵は、攻撃を受けている島々への増援を企図する可能性がある。その戦策は海岸づたいの両用作戦で、主に夜間に小型船舶や艀を利用したものであろう。 敵は更なる抗戦が無益だと判断した時には、目標地域から基幹人員の海上撤収を企図するであろう。 敵は潜水艦による攻撃を図るであろうが、外海では限定された規模になると思われる。また、敵は小型潜水艦或いは潜航艇をレイテ湾で使用し、その推定接近経路はセブ島を起点としスリガオ海峡を抜けるものとなろう。 重爆撃は敵戦力のうち強大なものを減殺するために用いることになる。 広範囲に渡る掃海作業が必要と考えられ、浜辺には縦横に地雷と障害物が設置されていると見られる。 多数機による散発的な空襲と撹乱目的の空襲は主として夜間に行われると見られる。 夜襲については魚雷艇並びに魚雷艇駆逐艇によるものが予想される。 敵航空機、水上艦、潜水艦の第一目標は輸送艦船と見られ、空母は第二目標と思われる。 我が軍は海岸への上陸、輸送、揚陸、支援を船舶により行い、以って第6軍の構成要素として制圧、占領、展開の支援を南部フィリピンのレイテ地区で遂行することになる。 指揮群は中部フィリピン攻撃軍司令官により割り当てられた任務を遂行する。中部フィリピン攻撃軍司令官支援用の航空部隊は、その全支援用航空機が直接及び/或いは協力して作戦する。その際には航空作戦計画別紙"G"に準拠するが、文書が上空警戒(combat air patrol,CAP)または目標海域での対潜哨戒の統制を規定する場合は、それらに準拠する。 北部攻撃部隊は合衆国陸軍第6軍司令部とその靡下の第10軍団(第1騎兵師団、第24歩兵師団、第98レンジャー大隊)を護衛をつけた上で輸送すること。A-3 dayには第98レンジャー大隊の指定兵力をホモンホン島の南の[スルアン(SULUAN)島]、北ダイナガット(DINAGAT)島[及びヒブソン(HIBUSON)島]に上陸させること。作戦上の統制は爆撃・砲火支援群より受けること。A-dayのH-Hourには第10軍団主力をレイテ島北部タクロバン地区のホワイト・ビーチ(SAN RICARDO)、およびレッド・ビーチ(PALO)に上陸させること。A dayのW hourには第24歩兵師団の1個連隊(RCT)をグリーン・ビーチ(パナオン海峡)に上陸させること。A-dayに先立って湾口の制圧を確立し、中部フィリピン攻撃軍司令官の職責から解かれるまで、そこを保持すること。意向調整のため、A-dayに先立って南部攻撃部隊が、艦砲射撃、夜間撹乱攻撃、水中処分部隊による海浜障害物除去を要請した際は、その命令を提供すること。砲火支援計画については付録 1 と別紙"E"に基づいて、砲火支援群(北)および近接掩護群に次の指示を与えること。まずこれら部隊の砲火支援区域への進出はA-dayに先立って行い、砲爆撃、夜間撹乱攻撃、近接砲火支援をA-dayに行う。またA-day以後必要に応じて、またはこれらの部隊が目標区域に到着次第統制を行うべきであると認められる場合にも、上記に沿って遂行すること。A-Day並びに爾後、我軍の水中処分部隊の作戦を統制、指揮すること。上記4事項が不要となった際には、砲火支援群(北)の任務を解くこと。近接支援群についても中部フィリピン攻撃軍司令官による作戦統制の必要性がなくなった際にはその任を解くこと。司令官支援用航空機を通して北部攻撃部隊は中部フィリピン攻撃軍司令官支援用航空機によって特令で指定された航空機を統制する。対潜、対魚雷艇、対空防御の態勢準備について、その担任区域は付録 4および別紙"L"に示す。舟艇と人員を舟艇集結拠点に移送し、その際は舟艇集結計画別紙"I"に従うこと。救難作戦の統制と運用実施については救難計画別紙"J"に従うこと。所在海上先任指揮官(SOPA)が目標区域に居る場合には、空中警戒と対潜哨戒の準備、統制については航空計画別紙"G"に従うこと。 南部攻撃部隊は合衆国陸軍第6軍靡下の第24軍団(第7師団および第96師団)を輸送しその護衛にあたること。揚陸はA-DayのJ-Hourに第24軍をオレンジ-ブルー・ビーチ(SAN JOSE)およびバイオレット-イエロー・ビーチ(DULAG)に対して行うこと。砲火支援計画付録1と別紙"E"に従って、爆撃・砲火支援群司令官に、A-Dayに先だち艦砲射撃および夜間撹乱射撃の指示を与え、その際は北部攻撃部隊の要請と我が隊の要請との調整にあたること。 海岸処分群司令官には、A-Dayに先立って海浜の障害物除去を指令し、その際は北部攻撃部隊の要請と我が隊の要請との調整にあたること。砲火支援群へA-Dayの砲火支援区域へ接近し、A-Dayと以後に砲爆撃、夜間撹乱射撃、近接砲火支援の指示を与えること。A-Dayの爾後は必要に応じて指示を与え、目標区域にてこれら部隊が到着次第統制を確実に行うこと。A-Dayには我が軍の水中処分隊に対し、統制、指揮を行うこと。爾後も同様とする。必要性がなくなった際には砲火支援群(南)を指揮から解くこと。司令官支援用航空機を通して、南部攻撃部隊は中部フィリピン攻撃軍司令官支援用航空機によって特令で指定された航空機を統制する。対潜、対魚雷艇、対空防御の態勢準備について、その担任区域は付録 4および別紙"L"に示す。舟艇と人員を舟艇集結拠点に移送し、その際は舟艇集結計画別紙"I"に従うこと。救難作戦の統制と運用実施については救難計画別紙"J"に従うこと。所在海上先任指揮官(SOPA)が目標区域に居る場合には、空中警戒と対潜哨戒の準備、統制については航空計画別紙"G"に従うこと。 爆撃・砲火支援群はA-Dayに先立って砲爆撃、夜間撹乱射撃を行い、その際は南部攻撃部隊司令官の発した指示に従うこと。[攻撃部隊が目標に到着するまで海浜処分部隊および掃海部隊]の掩護および統制を行うこと。北部攻撃部隊の上陸準備はA-3 Dayより行う。海浜処分部隊の活動および掃海、繋留ブイ進出の掩護および統制をおこなうこと。海浜処分部隊が遂行した成果と浜の情報は直ちに、攻撃部隊司令官に急送すること。司令官支援用航空機を通して、中部フィリピン攻撃軍司令官支援用航空機の到着まで目標上空の支援航空機を統制すること。A-Dayに先だつ艦砲射撃の段階では、空海救難、救援部隊と協力を図ること。その際は付録4と別紙"G"の空海救難手順に従うこと。 砲火支援群(北)は近接援護群による増強を受けて、A-Dayの砲火支援区域に接近すること。その際は北部攻撃部隊司令官の指示に従うこと。北部攻撃部隊司令官の命令指示書に従って爆撃および夜間の撹乱射撃、近接砲火支援を遂行すること。北部攻撃部隊司令官の指揮から解かれた際には、爆撃・砲火支援群司令官の指揮により報告および作戦を実施すること。 砲火支援群(南)は、A-Dayの砲火支援地区に向けて接近を行うこと。その際は南部攻撃部隊司令官の指示に従うこと。南部攻撃部隊司令官の命令指示書に従って爆撃および夜間の撹乱射撃、近接砲火支援を遂行すること。命令があった際には、軽水上打撃部隊(部隊は第3艦隊第35任務部隊を含み、第3艦隊指揮官については作戦計画14-44)を中部フィリピン攻撃軍司令官による作戦上の統制から解放する。 近接援護群は北部攻撃部隊司令官に護衛と目標地域への近接支援形態の準備について報告する。北部攻撃部隊司令官の発令した指示書に従って、A-Dayの砲火支援地区に向けて接近し、爆撃および夜間に撹乱射撃を遂行すること。北部攻撃部隊司令官により発令を行った時には、中部フィリピン攻撃軍司令官に報告すること。 護衛空母群は航空支援を行うが、その指示内容は計画の航空作戦の部、別紙"G"に拠る。 掃海・測量群は音響、係留、(訳者注:磁気)感応機雷の掃海をレイテ湾地区にて行う。掃海計画は付録 3から別紙"E"に拠る。水路の測量を行い、航法支援に供するため指示通り組み入れること。掃海・測量群の作戦統制は所在海上先任指揮官(Senior Officer Present Afloat,SOPA)に命じる。 海岸処分群はA-Dayに向けた準備段階では作戦統制を爆撃・砲火支援群司令官より受け、海浜の障害物の除去にあたり、その際は南部攻撃部隊司令官が準備した指示書に拠って行動すること。南部攻撃部隊が到着次第同軍司令官に報告する義務を負う。 役務群は別紙"K"に拠り兵站支援を提供すること。 本作戦計画は受領した時点より実施される。 本計画実施のため所定位置に移動すること。移動計画は別紙Cに拠る。 接近経路は進出計画付録 2から別紙Cに拠る。 夜間避退の伝達については避退計画付録 4および別紙Eに拠ること。 中部フィリピン攻撃軍司令官はA Day当日またはその後に空海救助作戦の調整にあたること。その際には付録 4および別紙Gに拠るものとする。 各司令官が命じた移動については不可欠な情報であるので、それについての発信は全ての任務部隊、任務群および航空部隊の司令官に対して行い、不測の味方部隊との交戦を未然防止に留意すること。 本作戦はマヌス(MANUS)、フィッシュハーフェン(FINSCHAFFEN)、並びにホーランディアより開始される。 中部フィリピン攻撃軍の支援航空機は上空警戒(CAP)および対潜哨戒の実施および統制を受けるが、これは機が目標区域に所在する場合に適用する。中部フィリピン攻撃軍司令官不在の際には上空警戒および対潜哨戒は所在海上先任指揮官の指揮の下、司令官支援航空機の統制を目標区域にて受ける。 小型水上機母艦(AVP)は爆撃・砲火支援群司令官にA-3 dayより報告を行い、戦艦、巡洋艦搭載の搭載機VO(Spotting Squadron)-VCS(Cruiser Scouting Squadrons,共に部隊符丁)の使用が認められる。爆撃・砲火支援群司令官から任を解かれた際には、これら搭載機は中部フィリピン攻撃軍司令官の作戦統制の下に復帰する。 対潜哨戒は各攻撃部隊がその態勢を確立し、レイテ湾口を範囲として、以って我が艦隊の海域を防護する責務を負う。少なくとも各哨戒範囲にて1隻は哨戒を継続し、レーダーによる夜間哨戒を一様に行って航空機と同様に敵水上艦船に備え、日中は敵航空機を特に警戒すること。この哨戒は航空指揮艦に加えて実施する。何れかの攻撃部隊が不在の際には、哨戒の徹底は残留攻撃部隊によりなされる。 攻撃部隊司令官は中部フィリピン攻撃軍司令官に対して詳細計画を提出し、合衆国陸軍第6軍司令官および南西太平洋方面最高司令官へ可及的速やかに写しを送付すること。 潜水艦の安全航路、救命拠点、作戦地域、爆撃制限区域は付録 5および別紙Lに拠る。潜水艦作戦については別紙Hに拠る。 魚雷艇作戦は付録 5と別紙Eに拠る。 救難準備については救難計画別紙Jに拠る。 太平洋軍(Pacific Ocean Areas Forces)と南西太平洋軍との担任区域は付録 6および別紙Gによる。 関係する他航空部隊と自航空部隊との一般的な需品使用の調整については別紙Gに拠る。 地理上の各参照点とその符丁は付録 1と別紙Lに拠る。 A-Dayの目標期日について、タクロバン-ドラグ(TACLOBAN-DULAG)地区での大規模な揚陸は1944年10月20日としている。計画においては全ての揚陸を一斉に行うこととした。目標時刻であるH-Hour、J-Hour、並びにW-Hourは1000時とする。 兵站、基地展開、衛生計画については別紙Kに拠ること。 通信については、通信計画別紙Nに拠る。 帯域ゼブラの時刻を全ての発信日時に対して用いること。現地時間は東経150度の西、南緯7度の北であり、地帯アイテムより-9時間の差である。発信の本文に記載する現地時間には時刻帯域の指定を追記すること。 指揮系統は別紙O記載の通り。 中部フィリピン攻撃軍司令官は揚陸作戦の総指揮をとり、指揮は上陸部隊が浜を確保するまで継続する。浜に所在する部隊の指揮は、その後に上陸部隊指揮官に移行する。 指揮の移譲は下記のように完遂するものとする:各海浜において上陸部隊が浜を確保したならば、現地上陸部隊指揮官は指揮の責を引継ぎ、現地攻撃群司令官に通知し、また当該の攻撃部隊司令官に報告する義務を負う。 各攻撃部隊は全上陸部隊が海岸を確保し、海岸での指揮を移譲したならば、攻撃部隊司令官および軍団司令官は中部フィリピン攻撃軍司令官に報告を行い、軍団司令官は報告を継続する責を負う。 全上陸部隊が海岸を確保した際には、第6軍司令官は中部フィリピン攻撃軍司令官に、自らが指揮をとる準備を成したこと、海岸の部隊の指揮が第6軍司令官に移行したことの報告を行うこと。指揮の移行を行った正確な時間は無電にて総司令部(G.H.Q.)に発信され、全司令官が留意することにある。 各任務部隊並びに任務群司令官は本計画の任務組織に掲載しているが、本計画書は速達によるので受領を確認すること。 ウィルキンソン海軍中将はマウント・オリンパスに座乗し、中部フィリピン攻撃軍の次席指揮官とする。 中部フィリピン攻撃軍指揮官は他に宣言があるまではホーランディアに所在する。 T.C.キンケイド海軍中将、連合海軍部隊司令官第7艦隊司令官並びに中部フィリピン攻撃軍司令官 別紙 軍隊区分 作戦要領 移動計画攻撃行動予定 進出計画 巡航指示書類 所在海上専任指揮官(SOPA)指示書類.投錨地図 攻撃計画砲火支援計画 戦闘計画 掃海計画 撤収計画 魚雷艇作戦指示書 荒天対処計画 航空計画航空支援計画 航空通信計画 航空作戦(図) 空海救助手順 戦闘機指揮官計画 基地航空機及び空母艦載機間の調整 偵察計画(図) 潜水艦作戦 舟艇集結計画 救難計画 兵站計画 航海関連別紙地理上の参照点と符丁 航路、給油海域、海上作戦海域 時間および道程諸表 作戦地域の海峡、港湾進出および各担任区域 潜水艦安全航路、救命拠点、作戦区域、爆撃制限地域 水路情報 気象情報 敵情判断別紙 通信計画 指揮系統
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作戦計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 01:52 UTC 版)
作戦構想としては、攻勢軸は2つあり、ひとつは、XXXVI軍団によるカンダラクシャを目指すもの。もうひとつは、フィンランドIII軍団による、ルウキ、ケミの攻略を目指すもの。ルウキ、ケミはいずれもムルマンスク鉄道のモスクワ方面への分岐があるベルモルスクより北にあり、予想されるロシア本土側からのソ連軍反撃を制止できる。XXXVI軍団は、カンダラクシャを攻略後、北上して、ペツァモからムルマンスクへ進撃する山岳軍団と協同して、冬の到来する10月以前にムルマンスクを攻略するというものであった。ケミヤルヴィ-カンダラクシャ間は幹線道路が一本あるだけで、それ以外のところはラップ人の使う小径以外の道路はなく車両輸送には問題があった。フィンランド軍部隊は極地戦や森林戦に熟練しており適した装備を有していたが、XXXVI軍団のドイツ軍はいずれも普通の歩兵部隊でそうではなかった。
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作戦計画
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上下大陳島、漁山島、披山島からの撤退作戦は金剛計画(中国語版、英語版)と命名された。大陳島からの撤退はアメリカ第7艦隊が支援するが漁山、披山島からの撤退は中華民国軍が独力で行うことになった。支援に当った第七艦隊の編成は以下の通り。 空母6隻エセックス ヨークタウン ワスプ キアサージ ミッドウェー(2月6日到着) プリンストン 重巡洋艦三隻:旗艦ヘレナ、ピッツバーグ、トレド 駆逐艦25隻(フレッチャーなど) ロケット揚陸艦2隻 掃海艦4隻 攻撃輸送艦3隻 攻撃貨物輸送艦2隻 高速輸送艦2隻 戦車揚陸艦7隻 他5隻
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作戦計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 17:04 UTC 版)
1940年のフィンランド・ソ連国境からムルマンスクまでは、約90kmである。ドイツ軍の作戦構想は、国境より二個山岳兵師団でムルマンスクに向かい、10月の冬の到来前に、北極狐作戦でカンダラクシャを攻略後、北上してくるXXXVI軍団と協同で、ムルマンスクを攻略する、というものであった。 ディートルは、ペツァモからムルマンスクの間は、東西の道路は十分でなく軍事行動に適さないし、冬季は補給も出来ないので、カンダラクシャを攻略できなければ、たとえムルマンスクを攻略できたとしても部隊の生存もおぼつかないから、ペツァモ地区では守勢を維持し、主攻勢は、ケミヤルヴィ→サッラ→カンダラクシャの線で行うべきだと、5月に国防軍最高司令部(OKW)に意見書を出したが、これは通らなかった。
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