復路
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「第64回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「復路」の解説
先頭の順大は6区の仲村明が現コース(第62回大会以降)では初の60分切りとなる59分26秒の区間新記録を樹立すると、7区の石垣英士も区間賞の走りで、2位大東大との差は10分11秒まで広がった。平塚中継所では筑波大が繰り上げスタート。 順大の独走はさらに続き、3年連続の8区出場となった松田卓也も2年連続の区間賞を獲得。戸塚中継所では山梨学大・駒大・東洋大・専大・筑波大・早大の6校が繰り上げスタート。シード権争いはそれまで9位だった東農大が7位に浮上し、早大が8位・山梨学大が9位に後退。10秒差で10位東海大が続く。 順大の9区・工藤康弘は区間2位に2分近い差をつける断トツの区間賞で、2位の大東大に14分08秒の差をつける。あまりの独走劇に鶴見中継所でタスキを繋げたのは順大・大東大・日体大と復路一斉スタートの日大のみであり、残る11校は繰り上げスタートとなった。シード権争いは東海大が9位に浮上し、山梨学大が2分39秒差の10位に後退。 順大は10区の山田和人も区間2位に2分以上差をつける断トツの区間賞。区間賞獲得7名(復路5人は全員区間賞)、残る3名も区間2位という圧巻の記録で総合3連覇を達成。2位の大東大に17分09秒の大差をつけた。3位には18分35秒差で日体大が入った。 シード権争いは、鶴見中継所で9位と3分21秒差の11位だった明大・牧野典彰が区間2位の好走で4番目にゴール。大逆転でのシード権獲得が期待されたが、10番目にゴールした東海大には43秒、13番目にゴールした早大にはわずか11秒届かずシード権を逃した。
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復路
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「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の記事における「復路」の解説
1917年9月26日、神戸からリバプールに向け航海中の貨客船「常陸丸」(2代、6,714トン、船長 富永清蔵、乗員117名、乗客42名)に遭遇した。「ヴォルフ」は停船命令および無線禁止命令を出したが「常陸丸」はこれに従わず逃走、無線電信を発した。「ヴォルフ」は砲撃を開始し数発命中、さらに上空に敵航空機が飛んでいるため「常陸丸」は観念して停船した。砲撃により14名が死亡した。「ヴォルフ」は乗客乗員を収容し石炭、真水、食糧、荷物の一部を奪い、しばらく2隻で航海したのち、11月7日南緯16度36分 東経59度07分 / 南緯16.600度 東経59.117度 / -16.600; 59.117の海上で「常陸丸」を爆沈処分した。 11月10日、電報傍受により、スペイン(中立国)貨物船「イゴッツ・メンディ」(Igotz Mendi)が7,000トンの石炭を運搬している事を知り、これを待ち伏せ拿捕した。必要な石炭を奪取するとともに、捕虜の一部を同船に移し、石炭補給船として同航させた。11月30日には米貨物帆船を拿捕、食糧などを奪取し乗員22名を捕虜にしてこれを撃沈。12月4日ごろに喜望峰を大きく迂回して大西洋に戻った。12月15日、フランス帆船を拿捕し29名を捕虜にしてこれを撃沈。荒波の大西洋上で「イゴッツ・メンディ」を横付けし石炭補給を受けたが、船体が破損し毎時20トンの海水が浸水するようになった。 1918年1月4日、ノルウェー(中立国)帆船を拿捕、口封じのため24名を捕虜とし撃沈。これが最後の拿捕、撃沈となり、これ以降は商船を発見しても迂回して帰国を急いだ。水と野菜の不足が深刻になり壊血病患者が続出していたためである。1月6日、再び荒波の洋上で「イゴッツ・メンディ」を横付けし給炭作業を行なったが、船体の破損はさらにひどくなり、浸水は毎時40トンとなった。2月7日デンマーク海峡に差し掛かったあたりで「常陸丸」の富永船長が自殺した。 「ヴォルフ」は北大西洋から北海、ノルウェー沿岸を経て、2月17日キール湾口に無事到着した。1週間乗員や捕虜の身体検査などを行なった後、2月24日キール港に帰還した。本艦の出港以来15ヶ月間、64,000海里に及ぶ作戦行動は下記の表のように、少なくとも29隻 計13万トンを撃沈、撃破する大戦果をおさめた。
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復路
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隊は南行きに出発してから73日後に向きを変えた。当初の予定である110日からさらに伸ばすために、食料は何度か削減された。このときシャクルトンはハットポイントに50日以内に到着する目標を立てた。以前にニムロドに迎えに来て貰う命令では、少なくとも3月1日に南極を発つ必要があった。隊員4人は肉体的に多かれ少なかれ疲労していたが、復路では驚異的に距離をこなし、1月19日には氷河の頭に達していた。氷河を降り始めたときは5日半分の食料を持っているだけであり、それで氷河の底まで達する必要があった。往路の登りでは12日掛かっていた。このころシャクルトンの体調が大きな問題であり、アダムズに拠れば、「彼は体調が悪いと感じるほどに、橇を頑張って曳いた」と記していた。 補給所には1月28日に到達した。赤痢に罹っていたワイルドは、橇を曳くこともビスケット以外食べることもできなかった。ビスケットも残り少なくなっていた。1月31日、シャクルトンが自分のビスケットをワイルドに食べさせ、その行為にワイルドは、「神よ、私は忘れることがないだろう。数千ポンドがあってもあのビスケット1つを買えないだろう」と記した。その数日後、腐ったポニーの肉を食べた結果として、隊の他の者も重い腸炎に罹った。それでも進行速度を保たれなければならなかった。補給所間で少量の食料しか運んだいなかったためいかなる遅れも致命的なものとなる。幸いにも背後から強風が吹いて、橇に帆を張ることができ、良好な進行速度を保つことができた。 シャクルトンは「我々は大層痩せていたので、堅い雪の上では骨が痛んだ」と記していた。2月18日からは見慣れた目印を見るようになり、23日にはブラフ補給所に到着した。そこで彼らを喜ばせたのは、アーネスト・ジョイスが豊富に物資を再補給していたことだった。通常の補給物資以外にあったご馳走は、シャクルトンがリストアップしたところで、カールスバート・プラム、卵、ケーキ、プラム・プディング、ジンジャーブレッド、砂糖漬けにした果物があった。ワイルドの簡潔なコメント「良きかな、老いぼれジョイス」だった。 彼らの食料の心配は解決したが、3月1日という最終期限までにハットポイントまで戻る行程が残っていた。最後の行程はブリザードに妨げられ、24時間閉じ込められた。2月27日、安全圏までまだ33海里(61 km; 38 マイル) 残っていたときに、マーシャルが倒れた。ここでシャクルトンは、船の発見に望みをかけ自分とワイルドがハットポイントまでダッシュし、他の2人を救出するまで停泊させることを決断した。2人は2月28日遅くに小屋に到達した。船が近くにいることを期待し、磁気観測に使う小さな木製の小屋に火を点けて船の注意を惹こうとした。それから間もなく、氷河舌近くに停泊していたニムロドが視界に入って来た。ワイルドは後に「人の目に見えたことも無いような幸せな光景」と記した。アダムズとマーシャルをバリアから救出するのにさらに3日間かかり、3月4日に全員が乗船し、シャクルトンが全速前進で北に向かうことを命じることができるようになった。
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復路
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「皇太子裕仁親王の欧州訪問」の記事における「復路」の解説
7月22日に香取・鹿島はポートサイドに到着、7月23日にはイスマイリア、7月24日にはスエズに到着した。7月26日にはアデンに向け出港、8月1日午前6時にはアデンから出港した。この日鹿島はグアルダフィに漂着した貨物船「暹羅丸」の乗組員59名の救助作業を行い、彼らを収容した後に香取と合流している。8月3日には鹿島の乗組員1名が高波にあって海中に転落し、行方不明となった。両艦は日没まで近辺で捜索を行ったが、結局見つからなかった。 8月9日に一行はコロンボに到着したが、本国が「皇太子殿下の身辺に身辺危険の報」があると伝えてきたため、上陸は行われなかった。8月19日にはシンガポールには到着、8月21日にはカムラン湾に到着した。鹿島・香取はここでペンキを塗り直すため8月24日まで停泊することになっていた。同地には侍従甘露寺受長が出迎えのために派遣されており、両親である大正天皇・貞明皇后からの言葉を伝えた。8月25日に一行はカムラン湾を出発し、一路日本を目指した。
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復路
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「第89回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「復路」の解説
前日と打って変わって真冬の気候に戻り、終始北風が吹き続けることになった。
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復路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 08:49 UTC 版)
6時30分、前日報告されていた5隻のドイツ軍水雷艇を「サーストン」および「タインデール」が発見する。両駆逐艦はおよそ11kmの距離で砲撃を開始。10分後にドイツ水雷艇群は煙幕を張って撤退した。その後、両駆逐艦は機動砲艇および2隻の機動艇との合流に成功し、負傷者らは「サーストン」へと移された。もはや他の小型舟艇は壊滅したものと判断され、両駆逐艦および3隻の小型舟艇は英国への帰還に移った。9時00分頃、プリマス司令部より派遣された「クリーブランド」と「ブロックレスビー」が到着。しかし、船団はドイツ空軍のHe115水上機によって発見された。直後にJu88爆撃機が飛来し、上空で支援にあたっていた英空軍のボーファイター爆撃機と交戦。双方ともが海上に墜落した。その他にも多くのドイツ機が飛来したが、英空軍沿岸軍団(英語版)が派遣したボーファイター爆撃機とハドソン爆撃機がこれらの対処に当たった。天候悪化の兆候が確認されると、船団ではドイツ軍を振り切るべく、損傷して速度が落ちていた小型舟艇の放棄を決断し、全ての小型舟艇乗組員を駆逐艦へ移した。 機動艇のうち、「160号艇」、「307号艇」、「443号艇」の3隻は自力で英国に帰還した。7時30分頃、Ju88爆撃機が再飛来。駆逐艦との合流地点へ航行しつつあった3隻に低高度で接近を試みた。3隻はJu88の操縦席を銃撃して撃墜。さらなる迫撃が行われたが、これも機関銃を用いて撃退した。これら3隻は遅れて合流地点に到達し、10時00分まで駆逐艦を待った後、丸一日掛けて自力で英本土への帰還を果たした。
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「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」の記事における「復路」の解説
プフォルツハイムから折り返してマンハイムまでの約90km。 GPS-Download プフォルツハイム, ブラウシュロット、ブレッテン、ゴンデルシェイム, ヘルムシェイム、ハイデルシェイム、ブルッフザール、フォルスト、ハンブルケン、ヴィーゼンタル、キルラッハ、ライリンゲン, ホッケンハイム、タルハウス、ケッチュ、シュヴェツィンゲン、フリードリッヒスフェルド、ゼッケンハイム、マンハイムを通るルートである。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:06 UTC 版)
「第73回東京箱根間往復大学駅伝競走」の記事における「復路」の解説
往路終了後及び復路スタート前の監督会議にて、駒大・森本葵監督の提案で15kmでの給水ポイントが設置された。
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