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アルバニア [Albania]
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アルバニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/13 08:11 UTC 版)
- アルバニア共和国
- Republika e Shqipërise
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(国旗) (国章) - 国の標語: なし
- 国歌: 国旗への賛歌

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公用語 アルバニア語 首都 ティラナ 最大の都市 ティラナ 独立
- 日付オスマン帝国から
1912年11月28日通貨 レク(ALL) 時間帯 UTC (±2)(DST: (±3)) ISO 3166-1 AL / ALB ccTLD .al 国際電話番号 355
アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Shqipërise)、通称アルバニアは、東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和国。首都はティラナ。
西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャがある。オスマン帝国支配等の歴史的経緯から、イスラム教を信仰する国民が大半を占めるが、世俗的である。正教会やカトリックの信者も少なくない。
目次 |
国名
正式名称はアルバニア語でRepublika e Shqipërise(レプブリカ・エ・シュチパリセ)、通称はShqipëria(シュチパリア)。
公式の英語表記はRepublic of Albania(リパブリク・オヴ・エルベイニア)、通称はAlbania(エルベイニア)。
日本語の表記はアルバニア共和国、通称はアルバニア。漢字では阿爾巴尼亜と当てる。
シュチパリアとはアルバニア語で「鷲の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」はラテン語の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくするアルビオンと同様アルバニアの地質が主に石灰岩質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来する。
歴史
詳細はアルバニアの歴史を参照
古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人がすむようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。
14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラーム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリア等とは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、ギリシャ正教やカトリックとの共通点を多く持つ)。
長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識が高揚し、1878年のプリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。第1次バルカン戦争の後、1912年に、イスマイル・ケマルらがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が「国土」としていた地の半分以上が削られた。1914年にドイツ貴族のヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートを公に迎え、アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたがその後も政情は不安定で、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した(アルバニア共和国)。その後ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアは君主政(アルバニア王国)となった。
1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後全土に進駐し[2]、ゾグーは王妃と共に亡命。イタリアとの同君連合という形で国王にはイタリアの国王が即位し、親伊派の傀儡政権が置かれた。第二次世界大戦時の1940年にはイタリアによるギリシャ侵攻によって南部の各地域が激戦地となった。1943年にイタリアが連合国に降伏すると、今度はドイツ軍によって占領された。
1944年11月29日、パルチザンとソ連軍による全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。1946年には王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班とする共産主義政権が成立した。1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名した。同年、ユーゴスラビアがコミンフォルムを脱退したことにより、ユーゴスラビアと断交する。1961年の中ソ対立からソビエト連邦を批判、1968年にワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とした極端な軍事政策を取った。隣国ユーゴスラビアとも、大統領チトーを「修正主義者」であると規定し、激しく対立していた。国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に暗い影を落としている。また1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ(石灰石は国内で自給できる数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に大量に残っている。同年、国号をアルバニア社会主義人民共和国へ改称した。
ソ連と袂を分かつ一方で中華人民共和国に接近して各種援助を受けたものの、近隣諸国とはほぼ鎖国状態のままであり、経済状況は次第に悪化した。また1967年に中国の文化大革命に刺激されて無神国家を宣言、一切の宗教活動を禁止した。1976年に中国で文化大革命が収束し、改革開放路線に転換すると中国を批判した。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、1980年代には、欧州一の最貧国とまで揶揄されるに至った。このため、1989年から全国的に反政府デモが続発し、ホッジャの後継指名を受けたラミズ・アリアが1990年から徐々に開放路線に転化を開始した。この間、それまで外交関係がなかった日本との国交を1981年に樹立している。
1991年に国名を「アルバニア共和国」に改称した。アリアは経済の開放とともに政党結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、1992年の総選挙によって、戦後初の非共産政権が誕生した。民主化後のサリ・ベリシャ政権は、共産主義時代の残滓の清算や市場主義経済の導入、外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。しかし、市場主義経済移行後の1990年代にネズミ講が流行し、1997年のネズミ講の破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は一瞬で破綻した。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという暴動が発生した。現在は沈静化しているものの、現在に至るまで尾を引いているといわれている。暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、アルバニア労働党を前身とするアルバニア社会党が与党となった。
2009年4月28日、ベリシャ首相はプラハを訪問し、欧州連合(EU)議長国チェコのトポラーネク首相にEU加盟を申請した。
政治
アルバニアの議会は、一院制で任期4年、全140議席である。うち、100議席は小選挙区制、40議席は比例代表制によって選出される小選挙区比例代表併用制。
国家元首は大統領で、任期は5年、議会の60%以上の賛成を獲得することによる間接選挙によって選出される。また、総理大臣は大統領により任命され、閣僚は首相の推薦の下で大統領が指名するが、最終的に議会からの承認も得る必要がある。
アルバニア労働党(1991年に社会党に党名変更)が冷戦期を通じて一党独裁を行う共産主義体制だったが、1990年より東欧民主化の影響を受けて、対外開放や複数政党制の導入などの民主化を始めた。1991年の初総選挙では社会党が連立によって政権を維持したものの、翌1992年3月の総選挙でアルバニア民主党を中心とした勢力が大勝利を収めた。これを受けて、第一書記から大統領となったラミズ・アリアはその職を辞任。サリ・ベリシャが第2代大統領として選出された。1996年に再選。
1997年1月国民の大半が加入していたねずみ講会社の破産を原因としてアルバニア暴動が発生。6月の議会選挙の結果を受け、7月にサリ・ベリシャは辞任。社会党のレジェプ・メイダニを大統領として、社会党政権が成立した。2001年の総選挙では社会党は73議席を獲得し、6割を確保できなかったため、大統領には民主党のアルフレッド・モイシウが就任したが、依然として社会党内閣が続いた。
しかし、2005年9月の総選挙で民主党が56議席を確保し比較第一党となり、18議席を確保した国民戦線、4議席の環境農民党・2議席の人権党連合と連立を組んで民主党のサリ・ベリシャを再び政権に送り込んだ。社会党は42議席を獲得し、最大野党となった。
2007年の大統領選出は立候補が無く、5回期限が延長された。サリ・ベリシャは、大統領選挙を直接選挙制にすべきだとの声明を出したが、2007年の大統領選挙には間に合うものではなかった。社会党党首のエディ・ラマは総選挙を行った上で民意を反映すべきだとしたが、世論はこれを支持しなかった。
結局、民主党副議長のバミール・トピと社会党前党首のファトス・ナノが立候補を表明した。これに対して、社会党はナノを支持せず、欠席戦術を用いた。トピがいずれの選挙でも勝利したものの、得票数が84に満たないために就任できなかった。また、第3回の選挙には、民主同盟党のネリタン・セカが出馬し、打開への期待からか32票を得た。第4回の選挙に際して、議会空転を終結させるため、ファトス・ナノは立候補を取りやめ、バミール・トピを支持した。その結果、出席90名、得票85票でバミール・トピは大統領に選出された。この後、ファトス・ナノは社会党を離党し、連帯行動党を結党した。
現在、アルバニアには社会党、民主党、緑の党、社会民主党、人権党連合など十数の政党がある。
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- ^ a b c IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ W.チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦 1』(河出文庫版)P248.
- ^ a b c d e 『アルバニア:「国民平等に貧しい」と「ねずみ講バブル」の関係』2008年3月6日付配信 日経ビジネスオンライン
- ^ 佐藤和孝 著 「戦場でメシを食う」(新潮社) 第三章 アルバニア-世界でもっとも孤立した国
- ^ 『アルバニアの金属資源』平野英雄 地質ニュース531号 1998年11月 pp.43-51PDF
- ^ 『アルバニアにおける移民と民族集団-シナジーと相互依存』(ワトソン・インスティテュート(Watson Institute))(英語)
- ^ アメリカ国務省『国際的な宗教の自由』(英語)
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