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エチオピア [Ethiopia]
(2)シマガツオの異名。〔1930年代に多獲された頃、エチオピアとの関係が親密になったための称という〕
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エチオピア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 03:40 UTC 版)
- エチオピア連邦民主共和国
- የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ
Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik -


(国旗) (国章) - 国の標語: なし
- 国歌: 親愛なる聖エチオピア

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公用語 アムハラ語 首都 アディスアベバ 最大の都市 アディスアベバ 建国 紀元前10世紀ごろ 通貨 ブル(ETB) 時間帯 UTC (+3)(DST: なし) ISO 3166-1 ET / ETH ccTLD .et 国際電話番号 251
エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家である。東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国。1991年5月29日にエリトリアが独立を宣言し、1993年5月24日に独立が承認された。首都はアディスアベバ。
アフリカ最古の独立国として知られる。サハラ以南のアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国である。
目次 |
国名
正式名称はアムハラ語で、የኢትዮጵያ ፈደራላዊ ዲሞክራሲያዊ ሪፐብሊክ(ラテン文字転写は、Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、የኢትዮጵያ (Ityop'iya)。
公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia。
日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国。通称、エチオピア。漢字による表記は哀提伯。他にエティオピアとも表記される。
国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来しており、本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指す。ギリシャ神話のパエトーンを参照されたし。また、別名のアビシニアは、アラビア語でエチオピア地方およびその地にやってきたセム系民族アクスム人(別名ハバシャあるいはアバシャ。アムハラ語:ሐበሻ hābešā/አበሻ `ābešā)を指すアル・ハバーシャ(al-ḥabašah الحبشة)が転訛した物である [2]。
ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年まで、1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き、エチオピア帝国と称してきた。1974年のクーデターの後、1987年まで社会主義エチオピア、1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年に憲法改正によりエチオピアとなったが、1995年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。
歴史
詳細は「エチオピアの歴史」を参照
古代・中世
エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王とシバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国が、現在のエリトリアにある沿岸の港町アドゥリスを通じた貿易で繁栄した。全盛期は4世紀でこのころコプト教伝来の影響が見られ(コプト教伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスム王国は、10世紀ごろにアガウ族の女首長グディトに滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。ザグウェ朝は13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝(エチオピア帝国)と呼ばれる。ソロモン朝は、イクノ・アムラクの孫であるアムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。しかし、16世紀以降その力は衰え、1679年から1855年頃まで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。
近代・現代
諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。しかし、第二次エチオピア戦争に敗れ、1936年から1941年は、イタリアの植民地(イタリア領東アフリカ)となった。1952年にエリトリアと連邦を組み、1962年にはこれを併合した。
1973年東部のオガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および干ばつによる10万人餓死という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月軍部によって逮捕・廃位させられた(1975年帝政廃止)。軍部はアマン・アンドム中将を議長とする臨時軍事行政評議会(PMAC, Provisional Military Administrarive Council) を設置、12月に社会主義国家建設を宣言し、ソ連の半衛星国となる。1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長就任。恐怖独裁政治や粛清により数十万人が殺害されたとされる。1987年の国民投票で PMAC を廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。
エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘の結果、メンギスツ大統領は1991年5月にジンバブエへ亡命。ティグレ人中心のエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) のメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領、次いで1995年8月には新憲法が制定されネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは事実上の最高指導者である首相に就任、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。
1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたEPRDFによるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。
1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展(詳細については、エチオピア・エリトリア国境紛争の項を参照)。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を受け入れた。7月、国連の安保理は国際連合安全保障理事会決議1312によりPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定。
2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。
歴代皇帝
エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガストと呼ばれ、これは「王(ネグ)の中の王」という意味である。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていない時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。詳細はエチオピア帝国を参照されたい。
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固有名詞の分類
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