真木氏とは? わかりやすく解説

真木氏

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真木氏(まきし)は、日本氏族




「真木氏」の続きの解説一覧

真木(槇)氏

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小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「真木)氏」の解説

藩主牧野氏兄弟分筋目士分上禄に3家が着座真木)氏は、橘姓本姓とするが、源姓称した南朝の忠臣真木定観末裔とする説もある。 三河国宝飯郡愛知県豊川市及び、その周辺)の氏の史料学的な初見は、南朝正平5年北朝観応元年1350年のことである(家系記・中條神社社記)。現在の豊川市中条町本拠地持ち戦国大名今川氏三河国侵略協力して牧野氏股肱寄騎(あるいは年寄)として、発展した三河真木氏)。そして、三河国内の土豪であった田原戸田氏岡崎松平氏徳川氏)・伊奈本多氏などと対立して抗争繰り広げた永禄3年1560年桶狭間の戦いで、織田信長奇襲敗れて今川義元討ち死にした戦後戦国大名今川氏衰亡が、次第明らかになり、今川氏離れて岡崎自立した家康内通したり、服属する者が増える中で、東三河牧野出羽守一族と、真木越中守定善等の今川支持派は、依然として、これに固執(あるいは義理重んじていた)。 特に真木)氏は、室町及び戦国時代における牧野氏根城である吉田城豊橋市)と、牛久保城豊川市)を守り数度渡り松平徳川)氏と衝突した真木越中守定善の父は、永禄4年1561年4月に、家康配下軍勢によって、夜襲受けた牧野氏牙城牛久保城死守するため獅子奮迅働きをして討死した(東京大学真木家文書など)。 永禄7年8年1564年1565年)ごろの真木越中守定善の動静は、ほかの牧野組の諸士習って家康降伏勧告受け入れ追放蟄居免れていた。しかし、牧野組は、家康国衆となった牧野成定・康成親子新たな盟主として、今川派の牧野出羽守一族追放して新体制となった新体制牧野組に残留した真木氏は、当然に新体制牧野組の中での発言権は、大幅に低下したものと推察される。永禄12年1569年)、真木氏は一向一揆鎮圧のため出陣し戦傷死した。その妻は後追い自殺をした。 真木氏は、天正18年1590年)、三河国牛久保城主から、上野国大胡城主(群馬県前橋市東部)2万石栄転した牧野氏から、その家老首座上まわる家中かちゅう)最高家禄となる食禄3,000石を与えられこれに随従。この時点では、まだ牧野氏客人であって家臣ではなかった。 やがて大胡藩牧野氏は、豊臣氏滅亡させた大坂夏の陣勲功などにより、越後国長岡藩6万石(後に74千石)に栄転した。真木氏は、藩主牧野氏先祖が、今川氏服属していた時代功労大きく家康服属後には、殊功それまでなかったが、真木氏庶系真木右衛門は、服属後となる大坂夏の陣武功をあげた。 元和年間家臣団名簿である「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」には、真木)姓の者が、多数見える。この前後に真木氏は牧野氏家臣団化されとみられるが、これを嫌って牧野氏旗下一時、真木氏当主真木清十郎重清・通称越中守)が出奔した長岡藩主・牧野忠成三顧の礼持って出奔した真木氏当主呼び戻したが、牧野氏旗下出戻った家系は、真木改めその筋目から特権的な家臣となった真木)氏は、藩主牧野氏先祖牧野新次郎)と兄弟分契り交わし水魚の交わりをなした家柄であったとされる出典長岡藩関係文書の『温古之栞』など)。長岡藩では、特別な筋目由緒から特権的家臣として扱った3家を、特に先法家呼んだ氏(本姓真木氏)は、この3家の中最有力の1家に数えられていた。 しかし、『温古之栞』などの伝説美談として、後世にまとめたものであって真木)氏は、江戸時代初期当時では、死罪あり得る当主出奔」によって、厳し減石処分受けたが、その筋目と由緒から、特権的家臣として残さざるを得なかったともいえる。 他方当主の弟は出奔せずに残留して長岡家1700となったので、この家系は、引き続き真木称した小諸真木氏は、出奔せずに残留した家系出自で、小諸真木氏の家祖となったのは、大坂夏の陣殊功をあげた真木右衛門であった真木右衛門惣領真木左衛門は、長岡藩主・牧野忠成の2男武成与板侯として分家立藩したときに、番頭として長岡から移動した当時与板藩には用人加判設置されていなかったので、番頭家老に次ぐ役職である。2代目真木左衛門は、与板藩在所家老累進し3代目となる真木六郎兵衛また、与板在所家老就任した江戸時代中期になると、長岡家臣の真木氏は、たび重なる不祥事により、名跡こそ残してはいたが、没落していた。明治初期士族教会との異名を持つ信州上田教会(現、日本キリスト教団上田教会)指導者1人となり、小諸でも布教活動行ったことで知られる真木重遠日本キリスト教大辞典収載)は、この家系出自であり、旧小諸藩ではなく、旧長岡藩であった。その一方で氏は、長岡先法家呼ばれた特権的地位を、廃藩まで保持した元禄年間長岡重臣先法家)の左衛門重全が、天然痘となり重篤となったため、かわりに庶系左衛門奉公した左衛門重全は奇跡的に回復して実子儲けた。ほぼ同じころ与板牧野氏は、小諸城主に栄転となったが、このときの家老真木六郎兵衛見える。 史料一部公開されていない(あるいは欠如している)ため、享保年間400石で家臣筆頭となった真木左衛門則成以前小諸家臣真木氏の細かい事績不明であるが、真木左衛門則成から3代渡り家臣筆頭役を勤めている。小諸家臣真木氏は、与板在封期に姓を使用することが、全くなかったが、小諸藩移封後、特に移封時の家老職真木六郎兵衛退役してから、姓を用いることが多くなった。長岡家臣・左衛門系から小諸家臣真木氏に養子入りをしたと推察想像させる記述もあるが、断定する根拠未見である。真木六郎兵衛嫡子・六之丞に家督譲ったとの記述し公開されていない真木左衛門則成の甥・真木市右衛門100石で召し出されているが、別家召し出しによる新恩給付なのか、分家として分出されものかは史料がなく不明である。真木市右衛門家は、2代目真木九郎次から当主若輩や、幼少続いたため100石に満たない家禄となり、宝暦期に3代目幼少で、出仕しないまま夭折した幼少当主跡取り残さず死亡したので、末期養子認められず無嗣廃絶となった改易)。当家立てられ時点真木左衛門家は400であった真木市右衛門家が分家の分出であったとすれば真木左衛門家の家禄400石を越えていた可能性もあるが仔細不明である。 また小諸移封後に、分家として分出され真木右衛門家(家老真木左衛門則成の2男が家祖)と、同じく真木九馬左衛門家(家老真木左衛門則成の3男が家祖)がある。もっとも真木右衛門家は、与板家臣であった真木右衛門家の名跡再興であったとみられる記事もある。 真木左衛門則成から家督相続した真木左衛門則復も、父と同じく家臣筆頭役・家老職となった退役隠居後家督分家真木九馬左衛門家から養子入りした真木造酒二郎真木左衛門則陽と名を改め家督相続、のちに家臣筆頭役・家老職となった真木左衛門陽には、はじめ男子がなく、藩主家から、養子十郎迎えたが、元服前に死亡した。その一方で真木左衛門陽には、はじめから男子があったとみられる記事もある。寛政8年家督相続した真木は、320石のうち、父の加恩相当する150石を減石されて170石を認められた。 当家は、小諸移封直後から江戸詰め連綿家柄であるとされてきたが、寛政4年1792年)、在所小諸引越し隠居していた首席家老経験者左衛門則陽も、小諸移転後病死した。左衛門則陽までは、姓で葬られた。真木氏は、小諸屋敷構えようになったが、維新まで数回屋敷替えをしている。 真木)玄は、寛政7年給人となり170石、文政3年1832年奏者となった同じく170石。文政12年成立した文政分限227石とあるため、文政3年1820年)から文政12年の間に、役職が同じであるにもかかわらず57石の加増があった。これについては諸説考えられる真木役高役職分)は、家柄より常に低い役職就任していたため、当然ゼロであった。しばらく病身出仕していない期間があり、世襲とされる持高170石に減石され、再出仕後200石となり、天保3年1832年隠居家老連綿とされる真木左衛門家の歴代当主の中で、真木当主36年及んだが、そのほとんどの期間が家老職より4階級も低い奏者にあった真木は、227石の持高支給されたこともありながら要職就任した業績があったとする文献未見である一方で大きな懲罰受けた形跡まったくない天保3年1832年)、真木左衛門則義は、200石の持高の内、150石の相続認められた。父が病身などの理由により、奉公充分にできなかったことが理由である。その一方で牧野兵衛家の牧野成章から、成裕の相続例と同じと見ることもできる。すなわち長期病身分の減石27石で、50石の減石役職手当増額整備による改革による減石である可能性もある。 真木左衛門則義は小納戸、同9年給人側用人天保15年用人見習加判弘化5年1848年)に用人本職となったが、見習期間が異常に長かった嘉永4年1851年)末、出火したが重い処分受けていないため、ボヤであったとみられるその後、真木氏としては40数年ぶりに家老職在所)に進み父の死により、その家督相続した真木要人則道も、用人職等を経て家老職在所となった分家2家の家系が、家格上げたことで、家老真木左衛門家とその支族は、1家を無嗣廃絶失ったが、小諸藩内で一層、有力となっていった。2つ分家当主中には罪を責められた者もいたが、大きく失脚することはなく、分家2家は維新まで連綿したため、3家共に、士分上禄認められた。士分上禄3家は、同藩において、真木氏以外には存在しない真木左衛門則成2男を祖とする分家(あるいは真木右衛門家、名跡再興の家)2代目は、実は、その当時深刻な財政危機に陥っていた信濃高遠藩33,000石(藩主内藤氏家老庶子招聘されたものである当家女子藩主内旨縁組したことで、班を進めたこのような招聘事例本間氏にもある。高遠藩家老庶子婿入りして当主となって以来真木右衛門家は若輩当主と、文政年間後半から幕末近く当主1名を除いた全ての当主番頭もしくは江戸留守居役・御城使などの番頭級以上の役職就任して、これを勤めあげた。 真木右衛門家は、天保9年10月17日江戸城和田倉門勤仕中に、その職務次席にあった失態軽微な火の不始末)があり、その連帯責任問われ懲戒処分受けている。また嘉永5年12月牧野家の改易取り潰しに伴い、その近縁者となるため、縁坐謹慎懲戒処分受けた真木左衛門則成3男を祖とする分家は、その2代目である真木造酒右衛門則芳が、班を進めて明和3年12月26日当家として初め用人加判となる。実は真木造酒右衛門則芳は、小諸家臣山本右衛門(重右衛門清福)家の庶子養子入りしたものであった山本清福は、家老牧野八郎左衛門成素の甥にあたる。真木則芳の庶子、則陽を本家真木左衛門家に養子出して、後に首席家老としたことで、当家家老家柄家老職となった2名の近縁となった実父則芳から家督相続した真木九馬左衛門則寅は、実弟家老職となったが、家督した家の格式違いから、弟の後塵を拝するようになった寛政2年3月1日江戸留守居役であったとき、牧野備後守不調法があった。謹慎縁坐適用となったが、本家長岡藩)の口添えがあり許された。寛政5年用人見習加判江戸留守居役兼帯翌年用人本職次いで実父から家督相続した真木九馬左衛門則高も、用人加判進んだ。しかし、真木則高は天保9年10月17日江戸城和田倉門勤仕中にその責任者首席)の地位にあった失態があり、謹慎持高減石格式降格懲戒処分受けた(これより奏者格)。失態内容軽微な火の不始末監督責任であったが、公儀御用であったため、重大視された。また則高には3人の男子があり、長男夭折し次男真木則直が妻子持ったが、家督相続前若くして死亡このため真木則高は、小諸藩家老木俣氏庶子養子迎えた家老木俣氏長岡家氏(本姓真木氏)から、木俣氏養子入りした者であった。3男の金太郎真木右衛門家に養子入りさせた。真木則寅までに3代連綿して用人加判となったが、この職を勤めあげることができずに格下げとなったので、則高は格式回復のため、かなり焦って無理をした形跡各種一次史料から読み取れる木俣氏から養子入りした真木九馬衛門則孝は、奏者格の格式物頭職に班を進めた養子の則孝は、婿養子ではなく亡き真木則直の妻子対立深め嘉永年間ごろより家内騒動になり、ついに則直の女子出奔家出をして捕まると自害したとされる。ここに真木九馬衛門則孝は、藩内・家中騒がせ家内取締まり責められ懲戒処分を受け、謹慎となり、奏者格・奏者職に格下げとなったその後真木九馬左衛門則孝は、元席に復して昇進し番頭級の江戸留守居役就任したが、真木九馬左衛門家の父祖獲得した家の格式回復することはできなかった。則孝には跡取りがなかったので、真木右衛門家から真木次郎則忠が急ぎ養子入りした。なお真木金太郎は、真木右衛門家に養子入り後に、子を持つことなく死亡していた。真木右衛門家は、金太郎死後長岡家臣から婿養子求めたので、養親子関係となった真木九馬左衛門則孝と、真木次郎則忠には、叔父・甥の血縁関係存在しない金太郎死後長岡家臣から婿入りした時期は、牧野八郎左衛門成澄が長岡家臣から養子入りしたときと、おおむね同じである。後の8代藩主康命が長岡藩から、養子入りした時期でもある。 明治元年1868年11月9日小諸騒動のため、朝敵となっていた本藩である長岡藩脱走兵を匿ったことを口実に、真木左衛門家の当主であった在所家老真木要人則道は、他の3名(牧野高崎・高と共に斬首刑処せられ、家族城下から追放され正眼院において軟禁状態におかれた。京に遊学であった真木守人は、帰国命じられ一人だけ在所当家屋敷監禁された。加藤六郎兵衛成美牧野馬成賢等が失脚後家族呼び戻され真木守人則近に家名再興許され席次は元席に戻った真木要人則道が斬首のとき、在所にいた若輩真木次郎則忠(真木九馬左衛門家)は、本家改易・斬首縁坐適用されとみられるが、重い処罰はなかった。斬首執行時、真木力太則徳(真木右衛門家)は、江戸詰めであった真木要人則道の改易・斬首縁坐適用されたほか、太田氏出奔の手助けしたため真木次郎則忠とは異なり江戸で謹慎長く続いた。しかし、加藤牧野馬派失脚時(明治2年9月)、明治新政府刑部省)から、謹慎には及ばずとの命令を受け復権。後に家令上席家扶長に就任した真木力太等が、信濃国松代藩藩主真田氏)宛に、「藩主遠江守が(小諸騒動による)謹慎解かれたので、小諸藩江戸藩邸に(松代藩主におかれては)来遊されたい」旨、打診した書簡現存独立行政法人国文学資料館所蔵松代藩真田家文書)。

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