内藤氏とは? わかりやすく解説

内藤氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 23:52 UTC 版)

内藤氏(ないとうし)は、日本氏族中世から近世まで栄えた豪族大名の一族。「内舎人の藤原氏」に由来[1]


内藤氏(丹波系)

内藤氏(周防長門系)

内藤氏(三河系)

内藤氏(甲斐系)

注釈

  1. ^ 従来、貞勝は長頼でなく国貞の子とされてきたが、この時に出された文書から長頼の子(国貞の孫)であることが分かる(「野間建明家文書」細川氏綱奉行人奉書)[2][3]
  2. ^ 延岡藩は現米2万8906石(表高7万石)、旧湯長谷藩は現米3260石(表高1万4000石)、旧挙母藩は現米6710石(表高2万石)、旧村上藩は現米2万9480石(表高5万9石)、旧高遠藩は現米1万5330石(表高3万3300石)、旧岩村田藩は現米4300石(表高1万5000石)で、いずれも現米5万石未満の旧小藩に該当[8]

参照



「内藤氏」の続きの解説一覧

内藤氏(丹波系)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 06:27 UTC 版)

「内藤氏」の記事における「内藤氏(丹波系)」の解説

藤原氏秀郷流の一族とされる前歴不明である。しかし、細川内衆とされていることから、細川氏直属家臣であった思われる永享3年1431年)に丹波守護代である香西元資罷免されると、細川京兆家被官である内藤信承が守護代就任入国した内藤氏は船井郡八木根拠構えたことから内藤氏の丹波支配が始まる。ただし、細川氏領国支配政策として分郡守護代制を布いていることから、内藤氏が丹波一国支配してたかどうかは不明である。 応仁元年1467年)からの応仁の乱の際には、但馬より出撃した山名方の将・太田垣氏と丹波諸豪を従え夜久野交戦している。しかし、文明11年1479年)に内藤元貞細川被官一宮氏の年貢免除認めなかったため、細川家当主細川政元拉致される事件起こり文明14年1482年守護代罷免された。代わって守護代就いたのは上原賢家元秀親子で、丹波物部豪族である。細川政元信任厚かったものの驕慢振る舞い多かったため丹波豪族怒りを買い、延徳元年1489年11月位田の乱が起こった明応2年1493年)、上原元秀死亡上原賢家明応4年1495年)に失脚し内藤元貞守護代復任した。その後細川氏細川高国派と細川晴元派に分裂すると、内藤貞正高国派の重臣として丹波勢を率い三好之長阿波勢と戦った。これが等持院の戦いである。なお、貞正の弟に内藤久清がおり、久清の子・次忠の代から小西称した。この次忠が小西行正であり、小西隆佐の父、小西行長祖父にあたる。 しかし、永正12年1515年八上城築いて根拠とした波多野氏次第勢力増大させ、波多野元清柳本賢治兄弟大永7年1527年)に高国政権を倒すと(桂川原の戦い)、内藤氏の勢力後退する天文2年1533年)に波多野氏内藤国貞破って丹波手中にすると天文7年1538年)には三好氏結んだ波多野秀忠によって八木城陥落させられた。その後国貞細川国慶結んで細川氏綱擁する動き見せている。 天文22年1553年内藤国貞は、三好長慶組み波多野氏数掛山城攻めたが、後援現れ三好政勝香西元成攻撃を受け戦死してしまう。しかし、三好家重臣であり国貞娘婿であった松永長頼内藤宗勝)が嫡男内藤貞勝(従来、貞勝は長頼でなく国貞の子とされてきたが、この時に出され文書から長頼の子国貞の孫)であることが分かる(「野間建明文書細川氏綱奉行人奉書)に家督を継がせ自らは後見役としてこれを建て直し波多野氏降して丹波のほぼ全土支配した永禄5年1562年)には、前年まで内藤軒宗勝と名乗っていた父・長頼が「備前守」を称するようになっており、貞勝は何らかの理由(死去か)で当主なくなっているが、三好長慶死後の永禄8年1565年8月赤井直正敗れ戦死した翌年には宗勝の甥松永孫六が守る八上城陥落その後、宗勝の次男内藤如安家督継ぎ元亀4年1573年)の足利義昭織田信長決戦の際、が丹波国人の宇津頼重とともに京都出陣し織田信長戦っている(槇島城の戦い)。天正3年1575年6月には織田信長は、内藤氏や宇津討伐兵を挙げ同年10月黒井城の戦い今度明智光秀赤井直正破れたものの、如安が代官務めていた亀岡落とされ(後に1578年丹波亀山築城)、内藤氏の八木城落城したのは天正7年1579年であった。これにより戦国大名内藤氏は滅亡した。 なお、内藤如安松永長頼の子であり、キリスト教信仰していた。彼は豊臣秀吉仕え朝鮮出兵にも参戦同族一世代上に当たる小西行長とともに講和交渉活躍している。のち、加賀藩に仕えるキリスト教禁教令発布された(1614年)、マニラ追放され1626年同地死去した

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内藤氏(周防長門系)

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「内藤氏」の記事における「内藤氏(周防長門系)」の解説

藤原氏秀郷流の一族周防国土着した。盛貞(智得)の代に大内氏仕え室町時代中期以降鷲頭氏に代わって長門国守護代務めた大内政弘仕えた弘矩、大内義興大内義隆仕えた興盛著名である。興盛大内義興・義隆を補佐し大内氏最盛期築き上げたまた、娘を大内義隆側室とし、安芸国人の当主毛利隆元に嫁がせ、縁戚関係強化している。 陶隆房クーデターである大寧寺の変では、興盛積極的に関与せず大内義隆助命要請封殺した。その直後興盛病死嫡男内藤隆時早世していたので、興盛死後嫡孫である内藤隆世家督継承した。しかし内藤家中は親陶晴賢派の隆世と、興盛の五男で親毛利元就派の内藤隆春対立激化。隆世は大内義長に従って毛利氏抵抗するも、長門国勝山城自害し家督は隆春が継いだ毛利輝元の母が内藤氏の出身であったため重用されたが、その養子元盛が大坂の陣大坂城入城したため、子の元珍らもともに切腹し没落した以後子孫小禄長州藩士として存続した。

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内藤氏(三河系)

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「内藤氏」の記事における「内藤氏(三河系)」の解説

三河松平氏徳川氏)の家臣江戸時代大名となった内藤氏は上述丹波周防の内藤氏と同祖とされるが、この間戦国期までの事蹟は明らかではなく仮冒可能性も強い。戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長内藤正成内藤家長内藤信成らが徳川家康仕え活躍し、その功績により江戸幕府成立後数家分かれ信濃高遠藩陸奥湯長谷藩三河挙母藩日向延岡藩信濃岩村田藩越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。明治維新時には大名内藤家全部で6家あり、維新後すべて子爵列した。特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。

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内藤氏(甲斐系)

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「内藤氏」の記事における「内藤氏(甲斐系)」の解説

内藤氏には甲斐土着した一派存在する代々武田氏仕えたとされる内藤虎資が守護武田信虎粛清され一時断絶した甲斐の内藤氏は工藤氏系譜を引く一族として知られる工藤氏鎌倉時代甲斐源氏属した一族であり、戦国時代には、『勝山記によれば永正5年1508年)に郡内領主小山田弥太郎甲斐守護武田信虎反抗して敗れる。『勝山記によれば、このとき郡内小山田氏一族小山田平三とともに工藤殿」が相模国伊勢宗瑞北条早雲)を頼って亡命しており、これが工藤下総守にあたるとも考えられている。 工藤下総守の子考えられている兄弟工藤長門守内藤昌秀(昌豊、工藤祐長)がいる。内藤昌秀は晴信(信玄)に仕えた譜代家老衆側近で、永禄2年1559年時点で「工藤左衛門尉」を称している。永禄6年1563年)頃から永禄13年1570年頃まで、信濃深志城長野県松本市)に在城しており、武田氏信濃侵攻や、越後国長尾氏上杉氏)との川中島の戦い活躍している。 昌秀永禄9年1566年)頃から西上国衆との取次務めており、浅利信種後任として元亀元年1570年)には西上箕輪城群馬県高崎市箕郷町)の城代となる。内藤姓への改姓はこの時点である可能性指摘される昌秀信玄武田勝頼の時代西上国衆指南箕輪支配担い天正3年1575年5月21日長篠の戦いにおいて討死する。 昌秀には実子がなく、信濃国衆・保科正俊三男千次郎(内藤昌月)を養子迎える。 昌秀の兄・長門守箕輪城に在城して城代代行務めており、昌秀戦死後箕輪城代代行の立場であることが確認される天正7年1579年)に昌月が箕輪城代として赴任すると、これを補佐していたと見られ天正9年1581年)までの活動確認されるその後の動向不明で、『武田三代軍記によれば武田氏滅亡後徳川四奉行一人・工喜盛(玄随斎喜盛)と同一人物とする説もある。なお、長門守の娘は朝比奈藤太郎昌是の養子・新九郎昌親の室となっている。 武田氏滅亡後内藤昌月滝川一益次いで北条氏直降り保科家高遠城奪還支援している。昌月の死後後北条氏豊臣秀吉滅ぼされると内藤氏も所領失った。昌月の子孫は会津保科氏(のちの会津松平氏)に仕えた江戸時代末期に、内藤昌豊の子孫の内藤氏出身梶原平馬会津藩家老務めた

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内藤氏

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防長経略」の記事における「内藤氏」の解説

内藤隆世自刃したものの、その叔父内藤隆春生き残り新たに内藤氏当主として長門守護代に就任した。内藤氏は江戸時代長州藩士として続いた

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