文政年間とは? わかりやすく解説

文政年間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:22 UTC 版)

菅江真澄」の記事における「文政年間」の解説

雪の山踰え(ユキノヤマゴエ) - 1820年文政3年五城目付近の山村暮れ巡歴した紀行文12月10日まで五城目の加賀谷彦兵衛家に滞在し富津内村中津又の川の一本橋渡り上小阿仁村目指し旅した日記蔵王権現の堂で大蛇物語書いた所の、山越えをする前に文章は後欠となっているが、図絵には埋もれた(上小阿仁村)中茂があり、雪中山越えしたことがわかる。 上津野ノ花(カヅノノハナ) - 1821年文政4年3月日記。『筆能志可良美』に収録されている。秋田領(大館市)十二所出発し沢尻から南部領入り、(鹿角市)土深井、おおながね、十文字から西道口に出て花輪着いた6日には福士川近辺めぐった。 筆の山口 - 1821年文政4年)冬は久保田城下の本誓寺滞在大晦日茶町ノ丁杉野家に移動2月まで歌会明け暮れる山から明田横森経て大戸移動し正治邸に40日以上滞在した若葉 - 1822年文政5年4月17日正治誘われて長沼岸辺通り、(現秋田駅周辺長野久保田藩重臣小野寺家入った。僅か半日記録だが秋田農業明る筆致描いている。『筆能志可良美』に収録されている。 筆能志可良美(フデノシガラミ) - 1822年文政5年)『笹の屋日記』などを所載する雑纂。『笹の屋日記』は土屋屋敷にいたが、11月伊藤斎の家にひさしを掛けた部屋に移る。軒に笹を植えて笹の屋称した師走に僧が海苔味噌を、石田氏が米を届けてくれる。元旦古希迎え信ずる神や両親の名、旅先世話になった故人の名をあげ献納する。『氷魚村君』の草稿残欠記載されている。 花のいでわじ日記 - 1822年文政5年以降の作。1813年文化10年3月訪れた松原藤倉紀行文の形に、田中、搦田、濁川添川部分地誌の形でまとめたもの。地誌編集練習思われる。 花の真寒泉 - 1824年文政7年見聞した各地清水について、20項目を挙げて故事伝説等書いている。そのうち16項目が秋田清水である。 出羽平鹿郡 - 1824年文政7年14巻からなる平鹿郡地誌久保田藩重臣岡見順平知康の祖父知愛が書いた享保郡邑記』を参照している。 月の出羽路仙北郡 - 1826年文政9年25からなる仙北郡地誌田沢湖町西木村含まれていない真澄田沢湖町梅沢病み死亡する久保田藩には24巻提出するが、東京大空襲焼失している。 かたゐ袋 - 雑嚢詰め込むように、見聞したことを記した随筆前篇三河尾張信濃出羽陸奥のことを、後編アイヌに関することを内容とする。

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文政年間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 14:35 UTC 版)

大御所時代」の記事における「文政年間」の解説

文化14年1817年)に信明が死去すると、家斉老中首座水野忠成ただあきら)を任命する。この時期、金の含有量減らした文政小判発行など8度に及ぶ貨幣改鋳や、農村治安維持対策としての文政の改革1827年1829年が行われた。財政支出増加により大量貨幣市場投下されたことで、物価持続的な上昇と共に貨幣経済農村にまで進展した一方幕政緊張緩み賄賂政治放漫財政黙認されたため「水の水野出て もとの田沼に なりにける」と風刺された。将軍家斉の奢侈大奥生活も、社会退廃的風潮促進し幕府財政政治影響もたらしたとされる文政10年1827年)には父・治済が死去

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文政年間(1818年 - 1830年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:34 UTC 版)

大相撲優勝力士一覧」の記事における「文政年間(1818年 - 1830年)」の解説

場所番付四股名成績備考1818年(文政元年)10月 東大柏戸 7勝1敗1無勝負1休 1819年(文政2年)4月 東大柏戸(玉垣) 5勝1敗2無勝負2休 玉垣西大関で5勝1敗1無勝負3休、両者取組無勝負1819年(文政2年)11月 東大柏戸 7勝1敗2休 1820年(文政3年)3月 東大柏戸(玉垣) 4勝0敗1分1無勝負 玉垣西大関で5勝1敗、6日間打ち切り1820年(文政3年)10月 西大玉垣 7勝1敗1無勝負1休 1821年(文政4年)2月 前2 四賀峰 7勝1敗1分1無勝負 1821年(文政4年)10月 東大柏戸 8勝2敗 1822年(文政5年)正月 東大柏戸(有馬山) 7勝2敗1休 有馬山西大関で7勝2敗1無勝負1822年(文政5年)10月 東大柏戸(玉垣) 6勝2敗1無勝負1休 玉垣西大関で6勝2敗1無勝負1休、直接取組無勝負1823年(文政6年)2月 東関源氏山(岩見潟) 6勝1敗 岩見潟は西関脇で6勝1敗、7日間打ち切り1823年(文政6年)10月 西小四賀峰 7勝2敗1休 1824年(文政7年)正月 東前2 小柳() 8勝1敗1休 西前頭6目で8勝1敗1休。 1824年(文政7年)10月 西前5 稲妻 7勝0敗1預2休 新入幕1825年(文政8年)正月小結 小柳 8勝2敗 1825年(文政8年)10月 西小稲妻 8勝1敗1休 1826年(文政9年)正月 西前6 黒柳 7勝1敗2休 1826年(文政9年)10月 東大小柳 8勝0敗1分2休 1827年(文政10年)3月 西関脇 稲妻 5勝0敗2休 雨天続きのため7日間打ち切り1827年(文政10年)11月 東大阿武松(越ヶ濱) 6戦全勝 先場所で小柳より改め、越ヶ浜は東前筆頭で6戦全勝6日間打ち切り1828年(文政11年)3月 西前2 緋縅 7勝1敗2休 1828年(文政11年)10月 西関脇 緋縅 8勝0敗2休 1829年(文政12年)2月 西大稲妻 6勝0敗1休 江戸大火のため7日間打ち切り1829年(文政12年)10月 西大関(横綱) 稲妻 8勝0敗1分1休 1830年(文政13年)3月 西大関(横綱) 稲妻 8勝0敗2休 1830年(文政13年)11月 西前2 渦ヶ渕(小柳) 6勝0敗1分1預2休 小柳東前頭6で6勝0敗1分1預2休、両者取組預り

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