文政年間
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雪の山踰え(ユキノヤマゴエ) - 1820年(文政3年)五城目付近の山村を暮れに巡歴した紀行文。12月10日まで五城目の加賀谷彦兵衛家に滞在し、富津内村の中津又の川の一本橋を渡り、上小阿仁村を目指して旅した日記。蔵王権現の堂で大蛇物語を書いた所の、山越えをする前に文章は後欠となっているが、図絵には雪に埋もれた(上小阿仁村)中茂があり、雪中の山越えをしたことがわかる。 上津野ノ花(カヅノノハナ) - 1821年(文政4年)3月の日記。『筆能志可良美』に収録されている。秋田領(大館市)十二所を出発し沢尻から南部領に入り、(鹿角市)土深井、おおながね、十文字から西道口に出て、花輪に着いた。6日には福士川近辺をめぐった。 筆の山口 - 1821年(文政4年)冬は久保田城下の本誓寺に滞在、大晦日に茶町扇ノ丁の杉野家に移動。2月まで歌会に明け暮れる。樽山から、明田、横森を経て大戸に移動し松淵正治邸に40日以上滞在した。 槻の若葉 - 1822年(文政5年)4月17日松淵正治に誘われて長沼の岸辺を通り、(現秋田駅周辺)長野の久保田藩重臣の小野寺家に入った。僅か半日の記録だが秋田の農業を明るい筆致で描いている。『筆能志可良美』に収録されている。 筆能志可良美(フデノシガラミ) - 1822年(文政5年)『笹の屋日記』などを所載する雑纂。『笹の屋日記』は土屋茂村の屋敷にいたが、11月に伊藤鶴斎の家にひさしを掛けた部屋に移る。軒に笹を植えて、笹の屋と称した。師走に僧が海苔と味噌を、石田氏が米を届けてくれる。元旦に古希を迎え、信ずる神や両親の名、旅先で世話になった故人の名をあげ献納する。『氷魚の村君』の草稿の残欠も記載されている。 花のいでわじ松藤日記 - 1822年(文政5年)以降の作。1813年(文化10年)3月に訪れた松原、藤倉を紀行文の形に、田中、搦田、濁川、添川の部分を地誌の形でまとめたもの。地誌編集の練習と思われる。 花の真寒泉 - 1824年(文政7年) 見聞した各地の清水について、20項目を挙げて故事伝説等を書いている。そのうち16項目が秋田の清水である。 雪の出羽路平鹿郡 - 1824年(文政7年)14巻からなる平鹿郡の地誌。久保田藩重臣、岡見順平知康の祖父知愛が書いた『享保郡邑記』を参照している。 月の出羽路仙北郡 - 1826年(文政9年)25巻からなる仙北郡の地誌。田沢湖町や西木村は含まれていない。真澄は田沢湖町梅沢で病み死亡する。久保田藩には24巻を提出するが、東京大空襲で焼失している。 かたゐ袋 - 雑嚢に詰め込むように、見聞したことを記した随筆。前篇は三河、尾張、信濃、出羽、陸奥のことを、後編はアイヌに関することを内容とする。
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文政年間
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文化14年(1817年)に信明が死去すると、家斉は老中首座に水野忠成(ただあきら)を任命する。この時期、金の含有量を減らした文政小判の発行など8度に及ぶ貨幣改鋳や、農村の治安維持対策としての文政の改革(1827年~1829年)が行われた。財政支出の増加により大量の貨幣が市場に投下されたことで、物価の持続的な上昇と共に、貨幣経済が農村にまで進展した。一方、幕政の緊張が緩み賄賂政治・放漫財政が黙認されたため「水の(水野)出て もとの田沼に なりにける」と風刺された。将軍家斉の奢侈な大奥生活も、社会の退廃的風潮を促進し、幕府の財政や政治に影響をもたらしたとされる。文政10年(1827年)には父・治済が死去。
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文政年間(1818年 - 1830年)
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場所番付四股名成績備考1818年(文政元年)10月 東大関 柏戸 7勝1敗1無勝負1休 1819年(文政2年)4月 東大関 柏戸(玉垣) 5勝1敗2無勝負2休 玉垣西大関で5勝1敗1無勝負3休、両者の取組は無勝負。 1819年(文政2年)11月 東大関 柏戸 7勝1敗2休 1820年(文政3年)3月 東大関 柏戸(玉垣) 4勝0敗1分1無勝負 玉垣西大関で5勝1敗、6日間で打ち切り。 1820年(文政3年)10月 西大関 玉垣 7勝1敗1無勝負1休 1821年(文政4年)2月 前2 四賀峰 7勝1敗1分1無勝負 1821年(文政4年)10月 東大関 柏戸 8勝2敗 1822年(文政5年)正月 東大関 柏戸(有馬山) 7勝2敗1休 有馬山西大関で7勝2敗1無勝負。 1822年(文政5年)10月 東大関 柏戸(玉垣) 6勝2敗1無勝負1休 玉垣西大関で6勝2敗1無勝負1休、直接の取組は無勝負。 1823年(文政6年)2月 東関脇 源氏山(岩見潟) 6勝1敗 岩見潟は西関脇で6勝1敗、7日間で打ち切り。 1823年(文政6年)10月 西小結 四賀峰 7勝2敗1休 1824年(文政7年)正月 東前2 小柳(桟) 8勝1敗1休 桟は西前頭6枚目で8勝1敗1休。 1824年(文政7年)10月 西前5 稲妻 7勝0敗1預2休 新入幕。 1825年(文政8年)正月 東小結 小柳 8勝2敗 1825年(文政8年)10月 西小結 稲妻 8勝1敗1休 1826年(文政9年)正月 西前6 黒柳 7勝1敗2休 1826年(文政9年)10月 東大関 小柳 8勝0敗1分2休 1827年(文政10年)3月 西関脇 稲妻 5勝0敗2休 雨天続きのため7日間で打ち切り。 1827年(文政10年)11月 東大関 阿武松(越ヶ濱) 6戦全勝 先場所で小柳より改め、越ヶ浜は東前頭筆頭で6戦全勝、6日間で打ち切り。 1828年(文政11年)3月 西前2 緋縅 7勝1敗2休 1828年(文政11年)10月 西関脇 緋縅 8勝0敗2休 1829年(文政12年)2月 西大関 稲妻 6勝0敗1休 江戸大火のため7日間で打ち切り。 1829年(文政12年)10月 西大関(横綱) 稲妻 8勝0敗1分1休 1830年(文政13年)3月 西大関(横綱) 稲妻 8勝0敗2休 1830年(文政13年)11月 西前2 渦ヶ渕(小柳) 6勝0敗1分1預2休 小柳は東前頭6で6勝0敗1分1預2休、両者の取組は預り。
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