きこう‐ぶん〔キカウ‐〕【紀行文】
読み方:きこうぶん
「紀行」に同じ。
紀行文
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紀 行文(きい ゆきぶみ、またはゆくぶみ[1]、弘和3年(永徳3年、1383年) - 薨年不明)は、室町時代の紀伊国の国造兼日前宮の神主にして公卿、歌人である。俊長の男。
- ^ 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
- ^ a b c d 『紀伊続風土記』巻14「国造家譜」行文条。
- ^ 林靖『本朝遯史』(万治3年(1660年)序)と石井元政『扶桑隠逸伝』(寛文3年(1663年)序)の紀俊長及び行文条。両書とも譲職を応永12年のことと記すが『紀伊続風土記』「国造家譜」行文条によって訂正する。
- ^ 『紀伊続風土記』「国造家譜」行文及び行長条。
- ^ 『公卿補任』永享元年から同10年条。
- ^ a b c 前掲『本朝遯史』及び『扶桑隠逸伝』。
- ^ 『続群書類従』巻183所収『紀伊国造系図』。
- ^ 『紀伊続風土記』巻15「毛見浦」国造俊長父子隠栖ノ旧趾条。
- ^ 『紀伊続風土記』「国造家譜」行文条、『大膳権大夫行文五十首』(『続群書類従』巻400所収)識語。但し御判詞は伝わっていない。
- ^ 雑上「夢さむる夜半の時雨は冬きぬとおどろかしてやよそに過ぐらん」(新編国歌大観番号1763)と雑中「和歌のうらのちりにつげとやかきをかんかひも波まのもくづなれども」(同1902)。因みに家集では後者に後小松天皇の合点が付く。
- 1 紀行文とは
- 2 紀行文の概要
紀行文
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名称作者成立年代内容及び解説『更級日記』 菅原孝標女 康平年間(1058年-1064年) 二村山に関するくだりは、著者が13歳頃の1020年(寛仁4年)、父である菅原孝標に従って上総国から京へ戻る道中の様子を回想したもので、浜名湖を渡り猪鼻坂を越えて三河国の高師山に至ったこと、八橋は名前だけで橋の痕跡がなく何の見どころもないこと、二村山では大きな柿の木の下にしつらえた仮の宿の上に一晩中降ってくる柿の実を人々が拾っていること、宮路山では10月も下旬であるにかかわらず紅葉が落葉せずに盛んであること、尾張国境の「しかすがの渡り」は渡るべきか否か思い悩まされるところが面白いこと、鳴海の海岸に至ったところに夕潮が満ちてきて逗留するにも中途半端なので一行が皆走ってやり過ごしたこと、などといった行程とその時々の情景が描かれている。八橋・二村山・宮路山の位置関係に混乱がみられる一方で、鎌倉街道が整備される以前からこの二村山を中継する道筋が利用されてきたことも読みとれる。 『海道記』 不詳 1223年(貞応2年) 江戸時代には「鴨長明海道記」という名で刊行されたことがあり、作者は長年鴨長明だとされてきた。しかし後年、源光行・藤原秀能などの候補者が浮上し、現在では事実上作者不詳とされる紀行文である。京から鎌倉への道中の様子を漢文調で描いており、旅の途中でさしかかった二村山の景観についても駢儷体を駆使した秀麗な描写を行っている。作者は1223年(貞応2年)4月4日に萱津(かやづ)を発ち、近道ではあるが急坂となる「塩見坂」を避け、回り道だがなだらかな二村山へと向かう。数多くの山はあるけれども、優雅な山はこの山だけ。松の木もあまたあるけれども、松の木立の美しさはこの山に勝るものはない。松風の音を聞いて雨かといぶかしんだが、鶴がのどかに空を舞いながら鳴いているのを聞いて晴天であることを知る。千古不変の松の姿はこれからも変わらないであろうが、自分の命は一時のはかないものであるから二度と目にすることはできないであろう。 『東関紀行』 不詳 1242年(仁治3年) 作者は鴨長明、源光行、源親行などといわれていたが、現在では事実上不詳とされる紀行文である。齢50近い作者が歩んだ京から鎌倉までの道中を記録しており、1242年(仁治3年)8月17日に熱田を発った作者は海岸沿いの道を東に進んで夜半には二村山に到達している。徐々に白みはじめた空のもと、この山道が山頂から遥かに眺める空と波の間に続いていくようだという、荘厳な情景を歌に詠んでいる。作者はその後、8月25日頃には鎌倉に到着している。 『春能深山路(はるのみやまぢ)』 飛鳥井雅有 1280年(弘安2年) 飛鳥井雅有は鎌倉時代の公家で、歌人として知られるほかさまざま紀行文・日記も残している。当日記では、1280年(弘安2年)11月14日から11月26日にかけて京から鎌倉へ移動した道中において、冷たい嵐の吹く二村山を越え、荒涼とした野原を渡って八橋に到着したとする記述が残っている。 『十六夜日記』 阿仏尼 1283年(弘安6年) 藤原為家の側室で歌人としても知られた阿仏尼による紀行文で、継子(藤原為家正室の子)二条為氏と実子の冷泉為相の間に生じた所領紛争に荷担した作者が幕府に裁定を委ねるべく鎌倉へ向かった旅の道中及び鎌倉滞在中の様子を描いている。1279年(弘安2年)10月16日に京を発った作者一行は、4日後の10月20日の昼には二村山付近に達していたと考えられるが、山野が思いのほか深いために、ようやく境川を越えて八橋宿に到達した頃には夕暮れになってしまっていたという。なお、十六夜日記は毎日の記述に日付をふっており、熱田-鳴海潟-二村山-八橋-宮路山という移動経路を正確に読みとることができる。また、10月29日に鎌倉に到着したとあることから、鎌倉時代にあって京-鎌倉間の移動に要した日数がおおよそ2週間程度であったことも正確にうかがえる。 『覧富士記』 尭孝 1432年(永享4年) 尭孝は室町時代中期の僧侶で、また歌人でもある。1432年(永享4年)に室町幕府第6代将軍足利義教の富士山見学に随行した時の様子を、紀行文として残している。9月15日に二村山を越え、9月19日には夜の闇に浮かぶ富士山をうち眺め、帰路にあった9月25日には境川を越えている。この紀行文の中で尭孝は二村山を、三河国-遠江国国境の山と認識していたようである。
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紀行文
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「ロバート・ルイス・スティーヴンソン」の記事における「紀行文」の解説
『内地の船旅』An Inland Voyage, 1878年(友人のRob Roy canoeとの、ベルギーのアントウェルペンからフランスのポントワーズまでの旅)吉田健一訳、岩波文庫『旅は驢馬をつれて』に収録。 Edinburgh: Picturesque Notes, 1878年(故郷エディンバラの土地、建築、歴史の紹介) 『旅は驢馬をつれて』Travels with a Donkey in the Cévennes, 1879年(フランス中部セヴェンヌ山脈の2週間のひとり旅) The Silverado Squatters, 1883年(妻ファニーとその子ロイドとの、アメリカのNapa Valleyへの新婚旅行。カリフォルニアワインの発展を予見している) Across the Plains, 1892年(1879–80年執筆、ニューヨークからカリフォルニアまでの列車の旅) The Amateur Emigrant, 1895年(1879–80年執筆、ヨーロッパからニューヨークまでの船旅) The Old and New Pacific Capitals, 1882年(1879年8-12月のカリフォルニアのモントレーでの滞在) Essays of Travel, 1905年
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紀行文
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散文では、国内政治が二極構造となり、京都と鎌倉の往還がさかんになったことを反映してすぐれた紀行文があらわれた。 そのなかのひとつに、阿仏尼が、藤原為家との実子(冷泉為相)と為家の嫡子二条為氏とのあいだで起こった播磨国細川荘をめぐる所領相論で幕府に訴訟するため鎌倉に赴いた際の紀行文日記『十六夜日記』がある。 『海道記』と『東関紀行』はともに著者不詳の紀行文であり、いずれも和漢混淆文で記された、中世紀行文学の嚆矢となった二作品である。前者は1223年(貞治2年)に京都白河の中山に住む「侘人」が、後者は1242年(仁治3年)に京の東山に在住していた「閑人」がともに鎌倉を旅したようすを紀行文としており、『東関紀行』の作者は『海道記』を読み、それを強く意識し、かつ前提にして書かれているという要素が濃厚である。『海道記』の作者については、かつては鴨長明説もあったが長明没後の作品であることが明らかであるので、こんにちでは源親行説が有力である。 さらに、純粋の紀行文学とはいえないが『とはずがたり』のなかにも紀行文がみえる。藤原定家の日記『明月記』には1201年(建仁元年)に定家が後鳥羽院の熊野参詣に同行した際の紀行文『熊野行幸記』が記されている。
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紀行文
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「タイガーバームガーデン (香港)」の記事における「紀行文」の解説
三島由紀夫は、1961年に訪れたタイガーバームガーデンのグロテスクな奇景を一つ一つ克明に観賞し、以下のような感想を綴っている。 この庭には実に嘔吐を催させるやうなものがあるが、それが奇妙に子供らしいファンタジイと残酷なリアリズムの結合に依ることは、訪れる客が誰しも気がつくことであらう。中国伝来の色彩感覚は実になまぐさく健康で、一かけらの衰弱もうかがはれず、見るかぎり原色がせみぎ合つてゐる。こんなにあからさまに誇示された色彩と形態の卑俗さは、実務家の生活のよろこびの極致にあらはれたものだつた。胡氏は不羈奔放を装ひながらも、この国伝来の悪趣味の集大成を成就したのである。中国人の永い土俗的な空想と、世にもプラクティカルな精神との結合が、これほど大胆に、美といふ美に泥を引つかけるやうな庭を実現したのは、想像も及ばない出来事である。いたるところで、コンクリートの造り物は、細部にいたるまで精妙に美に逆らつてゐる。幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に背馳したものが生れるといふ好例である。 — 三島由紀夫「美に逆らふもの」
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