かまくら‐かいどう〔‐カイダウ〕【鎌倉街道/鎌倉海道】
鎌倉街道
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鎌倉街道(かまくらかいどう)は、鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が置かれた鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。
注釈
- ^ 鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道だった[2]。
- ^ 東国15カ国とは、遠江国以東の東海道10国(遠江国、駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国)および信濃国以東の東山道5国(信濃国、上野国、下野国、陸奥国、出羽国)を指す[5]。
- ^ この書き方、読み方はいろいろある[7]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』、荏田[12]、菅生村の項など[13]。
- ^ 以下の24名。 小山出羽前司(小山長村[18])、 宇都宮下野前司(宇都宮泰綱[18])、 阿波前司(薬師寺朝村。小山朝正の男[18])、 周防五郎兵衛尉(島津忠景[19]、 塩谷親時[18])、 氏家余三(氏家経朝[20])跡(氏家公宗[20])、 壱岐六郎左衛門尉(葛西朝清[18])、 壱岐七郎左衛門尉(葛西時重[18])、 出羽四郎左衛門尉(小山時朝、中条光家[18])、 陸奥留守兵衛尉(井沢(留守)恒家[21][18])、 宮城右衛門尉、和賀三郎兵衛尉(和賀行時[18])、 和賀五郎右衛門尉(和賀景行[18])、 芦野地頭、 福原小太郎(那須資広)、 渋江太郎兵衛尉、 伊古宇又次郎、 平間江(川崎市上平間および下平間[22])地頭、 清久右衛門次郎、 鳩井兵衛尉(鳩井重元[18])跡、 那須肥前々司(那須資村[18])、 宇都宮五郎兵衛尉(宇都宮泰親[18])、 岩手左衛門太郎、岩手次郎、 矢古宇右衛門次郎[23][18]。
- ^ 鎌倉時代には矢古宇郷は、川口市・草加市にまたがっていた[27]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「谷古宇村」に「古くはこの辺りの村々全て一郷にて矢古宇と唱え」とある。[28]
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「鳩ヶ谷宿」に「吾妻鏡仁治四年三月十二日の条[30]の鳩谷兵衛尉重元とこの鳩井兵衛尉は同一人物」とある。」[31]
- ^ 宇都宮付近では田原街道の田川橋梁が古来「鎌倉橋」と呼ばれており、またこの田原街道を北上すると頼朝奥州征伐の際に奉幣した宇都宮二荒山神社の神官を代々務めた宇都宮一族の中里氏の本領「中里」に至り、中里を東進すると氏家を経て矢板に至ることなどから、田原街道筋は当時の鎌倉街道中路ないしその支路と推察される。
- ^ 現在、白河関は那須町伊王野から北北東に向かった先の福島県白河市旗宿にあり、白河神社がその遺物と考えられているが、芦野は伊王野から北北西に向かう現在の国道294号沿線の地名である。
- ^ 『吾妻鏡』治承5年閏2月23日の条に、「固古我高野等渡」とある[32]。また、『新編武蔵風土記稿』の「上高野村」に「舊くは上下の分ちなし」として、『吾妻鏡』の同条を引用し、「村境を流れる古利根川は古の高野川にしてそこに設しわたりて高野渡と呼びしか」とし、また「須賀村の傳へに古の鎌倉街道とて久米原村の方より入り古利根川をこえて下高野村に通せし」とある[33]。現在の宮代町から杉戸町へ渡る満願寺橋の位置が高野の渡し跡と推定されている[34]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿 外国府間村』「利根川 村の東を流る(中略)渡船場あり對岸元栗橋村に達す脇渡場と唱ふ」[35]
- ^ 江戸時代も幸手領を守る堤は補強された。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「向古河村」「村内に元奥州街道あり」[38]
- ^ 万葉集に収められた歌の中の「許我の渡り」とも考えられている。
- ^ 『新編相模国風土記稿』渡内村に「鎌倉道村の西北に係る」とある[44]。
- ^ 堂山下遺跡(埼玉県入間郡毛呂山町大字川角字堂山下1020番地他)が苦林宿跡と推定されている[47]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「瀧野川村」では、この谷村に対して、瀧野川村の小名谷津を示している[52]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「原宿村」に「昔、相模国鎌倉からの奥州筋の往還があり、宿駅を設置したため、この名前がある。」「龍岩寺の伝承で、源義家の奥州下向の時、渋谷城に滞溜し龍岩寺に軍勢が到着したため、門前の坂を勢揃坂と呼ぶ」とある[53]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「東大久保村」に「村の北側に奥州古街道があり、田畑の間を戸山の方へ進む」とある[54]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「雜司ヶ谷村」に「村の中程に古奥州道がある」とある[55]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「瀧野川村」に、「金剛寺より南の方、石神井川の対岸小高き所鎌倉古街道の跡という」とある[52]。
- ^ 豊島区高田1-18、35、36辺り。名称の由来は、練馬方面から江戸に行くのにここで1泊しなければならなかったため、と言われている[58]。
- ^ 『江戸名所図会』の「十二」に、「宿坂関の旧跡」の記述があり、金乗院と同じ絵に描かれている[59]。
- ^ 芳賀善次郎は、新田義貞の鎌倉攻め後の道と推定している[71]。
- ^ 『新編相模国風土記稿』小菅ヶ谷村鼬川の条に「鎌倉古道の係る所橋を架す新橋と唱ふ」と記述がある[75]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』の「荏田村」に「村の北の境に古の鎌倉海道のあとあり(中略)川和村のほうまでもその蹟のこり」とある[12][76]。
- ^ 武部健一は、「中路」は赤坂御用地を通る、としている[5]。芳賀善次郎はそれを、江戸初期の旧街道であろう、としている[77]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』の「等々力村」に下野毛村から入り衾村に続く鎌倉街道の記述がある[78]。芳賀善次郎は等々力を通る筋を中道の東回り本道としている[79]。ただし芳賀善次郎は上野毛通を中道筋として推定しているが、『新編武蔵風土記稿』は等々力村字宿を当時驛家があった場所とし満願寺を字関にありとしているので両者は厳密には一致しない[79][78]。
- ^ 芳賀善次郎は二子ー渋谷間について矢倉沢往還ではなく、上野毛・上目黒経由のルートを本道としている[81]
- ^ 下道の、丸子近辺での多摩川渡河地点について、矢口の渡し[89]、平間の渡し(下丸子(大田区)・平間(幸区・中原区))[5]、丸子の渡し(中原区上丸子)[90]など説があり、変遷や複数の分岐もあったと考えられる
- ^ 武部健一は六浦より木更津に渡るルートを示しているが、下道等の名称は明示していない[5]。
- ^ 極楽寺坂は、北条重時が極楽寺の建立を命じた正元元年(1259)頃切り開かれたと考えられている[94]。
- ^ 現藤沢市辻堂地区には、辻堂郷土史研究会による「京、鎌倉往還」の道標が設置されている[96]。
- ^ 浅間山、鷹巣山を通る尾根道。湯本から尾根筋に上る坂が湯坂と呼ばれる[100]。
- ^ 江戸時代東海道箱根宿の前身[100]。
- ^ 元山中には鎌倉時代から山中関所が設置されていた[101]。
- ^ 東京都国分寺市西元町など[7]。
- ^ 江戸時代の鎌倉街道とする説もある[116]。
- ^ 小野川などの水上交通との関係から求められた鎌倉街道下道の支線の一つと考えられる[119]。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』「赤浜村」の「赤浜渡之図」には、"鎌倉古街道"が描かれている[132]。
出典
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鎌倉街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:31 UTC 版)
前川の流れと直交して、東(鎌倉方)は祠峠に向かい、西(富山方面)は檜峠に向かう鎌倉街道が通っていた。この鎌倉街道は、大野川親村を通っていた。 鎌倉街道は、稲核-入山-角ヶ平-神祠峠-大野川-白骨-中の湯-安房峠-平湯-蒲田から、高原川沿いに越中東街道を北に向かっていた。このうち、入山から白骨が大野川に近いが、ここでは梓川沿いを避けて山中に入っていた。このルートを取ったのは、梓川のV字型渓谷には道を作れなかったことと、人家・集落を縫って道を作ったからであった。登り降りの苦労はあっても、山の鞍部のなだらかな中腹を通る道は、大雨による土砂崩れで道がいたむことも少なかったことがある。 白骨への道も、祠峠と檜峠を越える道をたどっていた。梓川沿いに前川渡まで道が開いて祠峠がやみ、のち、沢渡から湯川を登るようになったことで、檜峠越えを使わないようになった。檜峠道が栄えたころには、峠の南面には農家が点在し、桑畑なども見られた。峠の頂上には休泊所もあり、牛馬もそこで休んだ。 大野川を横断する旧鎌倉街道は、1969年の奈川渡ダム完成までは、生活道路として活用されていた。奈川渡ダム完成により、旧鎌倉街道はダムに分断され、奈川側(祠峠)では進入路を断たれてしまった。大野川から祠峠・檜峠へと歩くと、旧鎌倉街道沿いに家々があった。1970年に大野川から檜峠に向かう旧鎌倉街道沿いにある「くろんぶら」という場所を訪ねると、頑丈な造りの家々としばらく前まで耕作されていた畑がかなりあったように記憶すると、1970年ころに大学生として大野川をよく訪れ、地元の子ども達と古道を調べめぐったという服部英雄氏は書いている。 道路事情についての下記年表を見ると、1911年の前川橋を架け替えと、1917年の里道飛騨街道大改修工事は、いずれもこの旧鎌倉街道の整備事業であったことが知れる。一方、1929年には、1966年からの奈川渡以遠の道路付替工事で廃され水没した旧国道158号に相当する道路が整備されて、大野川へは前川渡経由で自動車で進入できるようになった。旧鎌倉街道は、1917年から1929年の間に、大野川へのメインルートではなくなった。
※この「鎌倉街道」の解説は、「大野川 (松本市)」の解説の一部です。
「鎌倉街道」を含む「大野川 (松本市)」の記事については、「大野川 (松本市)」の概要を参照ください。
鎌倉街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:02 UTC 版)
鎌倉幕府の政庁所在地鎌倉は、古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・院の所在地」京都を結ぶ最も重要な街道となり、幕府は東海道ルートに駅制を敷き、京都 - 鎌倉間の通常の旅程を約12 - 15日、早馬による緊急の通信は3、4日と定めた。 ただし、古代律令時代に作られた駅路東海道とは違い、早馬による通信制度は道路構造の貧弱さ故に廃れ、人の脚力に依存する方向に変っていったとみられている。この鎌倉極楽寺坂切通しと京都粟田口を結ぶ街道は、単に「鎌倉街道」「鎌倉往還」と呼ばれたり、海道と呼ばれたりしていた。また箱根路の整備も進められていた。 このころから東海道を旅した私人による日記文学が隆盛した。私人が宿泊可能な民営の旅宿が登場したことによるものであるが、この当時の旅宿は旅行者が携行する干飯(糒)などの食料を浸す温湯と簡素な寝具を提供するだけにとどまっていたとみられている。また源実朝の御台所の女房・丹後局が、承元4年(1210年)に旅の途中で盗賊にあったことから、鎌倉幕府により駿河以西の宿々に夜行番衆を置いて旅人の警護をするようになった。 鎌倉時代の東海道は、平安時代の東海道とは大きくルートが異なるところが2箇所ある。1つは近畿・中京を連絡する鈴鹿峠越えで、もう1つは東海・関東を連絡する足柄峠越えである。伊吹・鈴鹿山系を越える道筋は、古代東海道では南回りの鈴鹿峠越えであったが、中世になって関ヶ原越えのルートに変更されていて、『海道記』と『東関紀行』『十六夜日記』のなかからもその違いを読み解くことができる。また、足柄越えは『十六夜日記』のなかで「足柄は道遠しとて箱根路にかかる」とあるように、それまで駅路の整備が難しかった箱根路が開発され、近道となった箱根峠越えに変更された。 このほかにも古代の律令制下とは、気候・地勢や利用者・利用目的・整備状況など、さまざまな状況が異なっており、具体的な道程には、かなりの相違が見られる。全般に、古代の東海道より、かなり内陸寄りを通る場合が多いのが特徴である。 例えば、 三河国東部では、豊橋市の普門寺から、弓張山地を越えて同市多米町に至り、豊川市当古町で豊川を渡河する。西部では、岡崎市矢作・豊田市駒場を経由するというルートだったと考えられており、律令制下の東海道どころか、江戸時代の東海道や、現在の国道1号よりはるかに内陸の山がちなルートを選択していることが分かる。 尾張国では、豊明市二村山(沓掛)、名古屋市緑区鳴海・南区(上の道・中の道・下の道)・天白区野並・瑞穂区井戸田荘(上野路)・熱田区熱田・中区古渡町・中村区を通り、あま市下萱津と一宮市黒田を通った。 美濃国へは美濃路のルートなどから墨俣へ入り、そのまま、東山道ルートと合流。 近江国へは不破関を通過、さらに北陸道と合流して京都へ向かうルートが、鎌倉街道の本道であると理解されていた。 現在の交通路で言えば、国道1号よりも、むしろ東海道本線に近いルートが選択されていたと言える。 この鎌倉街道は、鎌倉幕府滅亡後も、主要な交通路としての地位を維持し続けた。静岡県磐田市の一の谷墳墓群遺跡の様相に、中世における遠江国の宿場町の繁栄を伺うことができる。また、戦国時代になると、六角氏の観音寺城、織田氏の清洲城、松平氏の岡崎城・浜松城、今川氏の駿府城、後北条氏の小田原城など、名だたる戦国武将の根拠地が築かれていった。また、尾張美濃国境の墨俣は、鎌倉街道の木曽川渡河点として、重要なポイントであり、羽柴秀吉の「墨俣一夜城」の逸話は、これを地理的背景とするものである。
※この「鎌倉街道」の解説は、「東海道」の解説の一部です。
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鎌倉街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/19 16:24 UTC 版)
北側には鎌倉街道が走っている。小坂の脇を通る鎌倉街道は、島田から小坂、阿見本郷を通って土浦、石岡(常陸国国府)へ向う鎌倉時代の街道になる。
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