幕内
新入幕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:42 UTC 版)
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1か月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった(外国人力士としては史上1位の若さ)。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱・朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7か月に次ぐ19歳2か月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから当時歴代3位タイ(現在は歴代4位タイ)。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と15代熊ヶ谷と約束した。 同年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って15代熊ヶ谷の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は15代熊ヶ谷の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。この場所は綱取りがかかっていた魁皇にも勝ち終盤まで優勝を争い、12勝3敗の好成績で初の殊勲賞を受賞した。
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新入幕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:11 UTC 版)
1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となる。12日目には小結柏戸剛が「止め男」として当てられ、早晩角界を背負って立つライバルとなるだろうと目されていた両者の対戦が早くも実現することになった。解説者の神風正一は「左四つになって大鵬」と予想し、玉ノ海梅吉も「結局大鵬が寄り勝ちそう」と予想。大方の予想が大鵬六分、柏戸四分である中、師匠の伊勢ノ海は「大体柏戸は小結、負けるはずがないじゃないか。ガブリ左四つになればともかく、その他の格好だったら絶対に負けない。そして柏戸は間違っても左は差させない」と柏戸の勝ちと予想。この一番で柏戸の出し投げに屈し、幕内での初黒星。神風は「左差しにちょっとこだわり過ぎたようだ。土俵際も腰が随分高かった。柏戸は十分に腰を割っていたから投げには絶好の時だった。柏戸の勝因は右おっつけが鋭かったことだ」とこの1番を解説した。その後14日目千秋楽と連敗したものの、12勝3敗の好成績を挙げた(敢闘賞)。13日目には関脇出羽錦と、千秋楽には関脇北葉山と対戦し、この場所では計3人の三役と対戦した。しかし三役3人と対戦させられたことに対して観客からの同情は無く、むしろ「小結、関脇では相手不足で、大関・横綱と組ませても五分に戦えるのではないか」とまで言われていた。 同年3月場所で東前頭4枚目まで番付を上げるが、序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。2日目の朝汐戦は横綱初挑戦となったが、朝汐が立ち遅れたのを待ったかと思い一瞬力を抜いたところをつけ込まれる形で寄り切られ、物言いがついたものの行司軍配通り。4日目には前場所優勝の栃錦にいいところなく押し出され、栃錦とはこれが唯一の取組になった(栃錦は翌場所引退)。後半の平幕戦で盛り返したものの13日目福田山戦できわどい相撲を落として負け越し、最終的に7勝8敗でこの場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外の場所で、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を記録している(1965年5月場所は9勝6敗だが、千秋楽に不戦敗))。またこの場所は柏鵬がともに幕内で皆勤して取組が組まれなかった唯一の場所でもある。
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