玉ノ海梅吉
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玉ノ海 梅吉(たまのうみ うめきち、1912年11月30日 - 1988年10月23日)は、長崎県東彼杵郡(現:長崎県大村市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は蔭平 梅吉(かげひら うめきち)[1]。最高位は東関脇。
- ^ a b c d e f g ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p21
- ^ 小島貞二著『物語相撲部屋』158頁,ベースボールマガジン社,1958年
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p48
- ^ 九年ぶりに「東西制」復活(『東京日日新聞』昭和14年12月24日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p299 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p39
- ^ 小島貞二著『物語相撲部屋』159頁,ベースボールマガジン社,1958年
- ^ a b ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ①(別冊夏季号) 67ページ
- ^ 元々協会側は玉ノ海が兵庫県知事と交わした契約に反対しており、当時の藤島理事長に相談して理解を得たことでようやく敢行に至ったものであった
- ^ a b 『切り捨てご免』
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p10-11
- ^ 松永史子『評伝・玉ノ海梅吉―地位と名誉を捨てた男』同友館
- ^ しかし、玉錦の霊前に手を合わせたのは報道陣から写真撮影のために手を合わせるよう言われたためで、玉錦の夢など見なかったと本人が後年になって語っていた話もある。
- ^ 石井代蔵『土俵の修羅』244頁(新潮文庫、1985)に「どこの社会にも不正は必ずある。学校の先生、警察官でさえ例外ではない。ところが相撲界にだけ不正がないということは、もう通用するわけがない。事実、八百長はいくらもある。協会も一度それを素直に受け止め、予防策なりに取り組むべきですね。びしっと罰則をもうけるべきだ」と本人の主張が確認される。
- ^ 具体的に八百長告発も行ったことがあり、「大鵬の32回目の優勝は八百長だった。」と自身の手記に残している。
- ^ 自著『これが大相撲だ―生きて、みつめて』
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P78
- ^ 胃炎、大腸炎により9日目から途中休場
- ^ 感冒により12日目から途中休場
- 1 玉ノ海梅吉とは
- 2 玉ノ海梅吉の概要
- 3 エピソード
- 4 主な成績
- 5 参考資料
固有名詞の分類
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