父と共に
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同志社に入学し、同志社此春寮に入寮するまで、健作は父と歩みを共にした。実際には、健作が同志社に入学した1952年に、文男は同志社大学宗教部主事に就任し、同志社時代も父の働きを間近に目にすることとなる。父・文男は平日を同志社の寮で過ごし、週末は岐阜の坂祝教会・蘇原伝道所(創設)を兼牧、文男50歳の時である。健作が学部を卒業し、大学院に入学した1956年、文男は同志社大学宗教部長・神学部専任講師に就任、坂祝教会・蘇原伝道所牧師を辞任し、丹波教会牧師を兼務(54歳)。健作が大学院修士2年の時、文男は神学部教授(実践神学)・学生部長に就任している。この頃、農村伝道に関する諸論文を「福音と世界」「基督教研究」誌上に発表している。健作も派遣された都市部の教会での奉仕と並行して、父が牧会する岐阜の坂祝教会・蘇原伝道所の礼拝を応援した。健作が「坂祝教会(現中濃教会)」を「魂の故郷」と呼ぶのは、電気も通わない戦後の農村で体験した家族と共なる伝道と生活の記憶が鮮明であり続けたからであろう。 1932(昭和7)年、父・岩井文男が賀川豊彦から指示され、岐阜県加茂郡富田村に赴く。 健作、1933(昭和8)年8月1日生。 賀川豊彦の援助を受け、父・岩井文男、同志社神学部に入学、京都に転居。 父・岩井文男、同志社卒業後、東京市渋谷区八幡通にて開拓伝道。「日本組合渋谷教会」開設。 健作、常盤松尋常小学校から松澤小学校(世田谷区)に転校。父の開拓伝道地が杉並区永福町となり、渋谷教会から永福町教会に変わり転校。 健作、新潟県岡野町の西照寺に疎開。 群馬県北甘楽郡高瀬村に疎開。疎開後、松澤小学校に戻る。 1946(昭和21)年、岐阜県加茂郡坂祝村黒岩に転居。父・文男(45歳)再度の農村伝道。「坂祝(さかほぎ)教会(現中濃教会)」開設。蘇原教会で聖書研究会を開催。 健作、坂祝教会開設主日(1946年10月6日)に父より受洗、13歳。11人が受洗。 親子7人、春〜夏は薩摩芋、秋〜冬は麦という二毛作の農耕。 日々の農作業、山羊の世話、蜜蜂の飼育、草取り、種まき、収穫、換金等。日曜学校で「聖書読破会」。 健作、中3の時に「同信会」の高校生献身者キャンプに参加。 岐阜県立加茂高校入学、卒業後、1952年4月、同志社大学神学部に入学。18歳。
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