化け猫騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 01:10 UTC 版)
息子二人への仕打ちを恨んだ玖月善女は、同天正10年(1582年)市房山の市房神社に愛猫の「玉垂」という黒猫と共に籠り断食に及んだ。それが21日経った頃、玖月善女は自らの左右の指を噛み切って狛犬に塗り、また猫にも血を吸わせ相良家を呪詛、4月28日に入水した。それから間もなく、黒木千右衛門が猫にうなされながら死去、犬童九助に酒を勧めた馬療治にも呪詛が及ぶなどした。 この化け猫騒動は、忠房が14歳で早世してもなお鎮まることがなく、忠房の後を継いだ相良頼房は、慶長2年(1597年)に青井阿蘇神社に祠を立て11月28日に慈悲権現を鎮座、その鎮座した日を祭礼と定める。それでも鎮まらなかったものか、頼房の次姉・千満が虚症を患ったため、寛永2年(1625年)頼房は普門寺の跡地に千光山生善院を建立、盛誉法印に「権大僧都法院」を贈号し、更に盛誉法印の命日に当主と領民が参詣するよう命じたことで、呪いはようやく鎮まった。
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