改易の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 18:34 UTC 版)
家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。 大坂夏の陣に際して忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。家康はこの一件を大坂の陣後の帰国時に同地を訪れた際に初めて聞き、怒りを露わにして調査を命じた。当時の軍法では他の者が自隊に入り込んだ際には、馬や武具の没収を命じており、斬り捨ては過剰行為であった。 合戦後の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしたこと。 帰国に際して許可を得なかった上、本街道を通らずに脇道を通り帰国したこと。これも当時の軍法違反に当たる。 大領を得ているにも関わらず、私事に金穀を用いて軍用金不足を訴えたこと。 以上が、秀忠が改易を命じた理由である。しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。 キリスト教ときわめて親しい関係にあったためという説。妻の五郎八姫はキリシタンだったとされる。また、大坂の陣での不甲斐ないともとれる行動は、大坂方にキリシタンが多かったために同情心があったと推測する説がある。 忠輝の岳父が伊達政宗であったため、また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていた大久保長安と近い間柄であったことから、幕府から警戒されたという説(大久保長安事件)。忠輝の重臣で縁者の花井吉政は、娘を大久保の息子の室とし、さらに息子の室に大久保の娘を迎えている。大久保自身も幕閣の諸職と兼任の上で、慶長8年(1603年)2月12日に忠輝の附家老に任じられている。
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改易の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 07:51 UTC 版)
吉治は特に悪政を行ったという形跡もなく、改易の理由も「病と称して鷹狩りに興じて参勤を怠った」という理由以外に、前出の秀忠の乳母を粗略に扱ったから、など諸説あり、その改易された正確な年月日すらも諸説あってはっきりとしていない。また同じような理由で改易された人物も少ない。 幕府が、こじつけのような理由をつけてまで改易までに至らしめた理由については諸説あるが、弟・正之が福島正則の養子となっている事、関ヶ原の戦いで西軍に属して丹後田辺城を攻めた経緯があることなどから、安定期に入った江戸幕府から旧豊臣系の大名として認識され、外様大名の改易政策の一環として目をつけられていたからではないか、とする考察がある(細見末雄、宿南保など)。また、当時幕府が次々と全国の金山・銀山を直轄領とする政策を打ち出していたが、吉治が但馬国養父郡の中瀬鉱山(中瀬金山)の金山奉行を務めていた関係もあり、これを幕府が取り上げる意図もあったのではないか、などともされている。
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改易の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:17 UTC 版)
嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだことが、改易の理由であるとされるが、他にも改易の理由には諸説ある。忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも、駿河大納言事件に連座したためとも言われている[要出典]。春日局の兄・斎藤利宗は父の清正により5,000石で召し抱えられ、忠広にも仕えていたが、徳川忠長と親交が深まると暇を請い熊本より退去し、旗本として幕府に同石高で召し抱えられている。 また、加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名、しかも豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたという説もある[要出典]。 また、父・清正が残した課題が忠広の統治に大きな影響を与えたとする研究もある。加藤清正は新田開発や治水工事の逸話が知られている一方で、朝鮮出兵に対応するための動員体制が、その後も関ヶ原の戦いや天下普請に対応するために継続された結果、百姓は度重なる動員や重税に悩まされて農村は荒廃した。また、支城主には大きな権限が与えられ、清正が没して幼少であった忠広が家督を継ぐと幕府が直接介入して彼らを抑制しようとしたが、その統制も困難になってきた。それが家中の対立を招き、藩政の停滞・改易につながったとされる。
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