改易・配流とは? わかりやすく解説

改易・配流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:46 UTC 版)

松平忠輝」の記事における「改易・配流」の解説

慶長19年1614年)の大坂冬の陣では江戸留守居役命じられる剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城出発しなかったが、岳父伊達政宗促しもあり、結局これに従った慶長20年1615年)の大坂夏の陣大坂出陣した伊達政宗後援の下に大和口の総督命じられたが、遅参により軍功挙げることはできなかった。同年8月家康は忠輝に対し今後対面禁じる旨を伝え使者送った元和2年1616年4月家康死去した家康今際の際秀忠義直・頼宣・頼房らを呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら参じたが、家康最後まで面会を許さなかった。『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて城中へも入るべからざる旨仰下され御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下禅寺寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。 元和2年1616年7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易命じられ伊勢国朝熊流罪とされ、金剛證寺入った生母茶阿局は、家康側室阿茶局高台院などにも取り成し依頼したが、聞き入れられなかった。元和4年1618年3月5日正式に飛騨国高山金森重頼預けられた。この際使者近藤秀用中山照守に対して「吾罪あらんには。この儘に死をたまはるべし」(『徳川実紀』)と、潔い死罪主張して動こうとしなかったが、幕府重臣らがとにかく将軍陳謝することを勧めたため、ようやく飛騨赴くことにした。金森家では忠輝を持て余したらしく、寛永3年1626年4月24日には信濃国諏訪諏訪頼水預け替えとなった息子徳松(母は竹の局)は同行許されず、別に岩槻藩主・阿部重次預かりとなったもののそこで冷遇され寛永9年1632年)に住居に火をつけて自殺している。享年18墓所岩槻浄安寺。 忠輝は諏訪配流屋敷長年過ごした監禁生活ではなかったらしく、地元文人交流したり、諏訪湖泳いだなどの話が残る。天和3年1683年7月3日幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した享年92当時としても長命であり、徳川将軍大甥5代徳川綱吉になっていた。 野風の笛逸話をもって家康との仲は実はそう悪くはなかったとする説もある。この笛は、織田信長豊臣秀吉家康渡り歩いた物とされており、その天下人象徴である笛を、家康茶阿局通して忠輝に渡したといわれている。現在、長野県諏訪市貞松院保存されている。

※この「改易・配流」の解説は、「松平忠輝」の解説の一部です。
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