改易・配流
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慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられる。剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられたが、遅参により軍功を挙げることはできなかった。同年8月、家康は忠輝に対し今後の対面を禁じる旨を伝える使者を送った。 元和2年(1616年)4月、家康が死去した。家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。 元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされ、金剛證寺に入った。生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局や高台院などにも取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。元和4年(1618年)3月5日に正式に飛騨国高山の金森重頼に預けられた。この際、使者の近藤秀用・中山照守に対して「吾罪あらんには。この儘に死をたまはるべし」(『徳川実紀』)と、潔い死罪を主張して動こうとしなかったが、幕府の重臣らがとにかく将軍に陳謝することを勧めたため、ようやく飛騨に赴くことにした。金森家では忠輝を持て余したらしく、寛永3年(1626年)4月24日には信濃国諏訪の諏訪頼水に預け替えとなった。息子の徳松(母は竹の局)は同行が許されず、別に岩槻藩主・阿部重次の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年(1632年)に住居に火をつけて自殺している。享年18、墓所は岩槻の浄安寺。 忠輝は諏訪の配流屋敷で長年を過ごした。監禁生活ではなかったらしく、地元の文人と交流したり、諏訪湖で泳いだなどの話が残る。天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。享年92。当時としても長命であり、徳川将軍は大甥の5代徳川綱吉になっていた。 野風の笛の逸話をもって、家康との仲は実はそう悪くはなかったとする説もある。この笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したといわれている。現在、長野県諏訪市の貞松院に保存されている。
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