改易当初の藩士の所見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が赤穂藩へと飛んだ。 第一報は、14日未の下刻(午後3時半頃)に早水藤左衛門と萱野三平が早駕籠に乗って江戸を出発し、19日寅の下刻(午前5時半頃)に赤穂に到着した。この時点では、刃傷沙汰のみが伝えられた。次いで14日夜更けに江戸を発した第二の早駕籠(原惣右衛門と大石瀬左衛門)が19日の内に赤穂に到着し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を伝えた。江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度かかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、4日半程度で赤穂に着いている。一方、吉良上野介の生死が赤穂側に伝わったのは3月下旬であった。 筆頭家老の大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた。そして大石を上座に据え、連日、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、赤穂藩士は内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである。一方で親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。 家臣達の意見は、上野介が処罰されなかった事に対する抗議の意思を籠城によって示すというものが多かったが、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったためである。 また、内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも、籠城を辞めた理由の一つである。大石は城内での議論と並行して、上野介の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたが、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである。 連日の議論を経て、大石の出した結論は、赤穂城の前で皆で切腹しようというものであった。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も上野介への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである。また、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある。 最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出した。 なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった事による。大野はとにもかくにも主君の弟である大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府に明け渡すのが先決だと考えていたのである。 しかし切腹の神文を提出する段になって、原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した。なお原はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している。大石は4月12日に赤穂城の明け渡しを最終的に決定した。 一方で、この時点ですでに吉良邸討ち入りを明確に標榜していたのは、江戸藩邸詰めの堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛の3人であった。3人はこの時点で、20人ほどの同志を得られたら直ちにでも討ち入りをする算段であったが、賛同者は得られなかった。国元での世論については情報を得られなかったため、籠城・討ち死にも視野に入れて赤穂へ向かい、4月14日に到着した。大石は3人に対し、将来の御家再興を視野に入れての自重を求めた。3人は他のものとも意見交換をしたが、いずれも一旦の恭順をとるという大石の意見に従っていたため、3人はこの時点での討ち入りを断念した。
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