第一報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:26 UTC 版)
バスク地方最古の町であり、その文化的伝統の中心であるゲルニカは、昨日午後、反乱軍空襲部隊によって完全に破壊された。戦線のはるか後方にあるこの無防備都市の爆撃は、きっかり3時間15分かかったが、その間、三機種のドイツ機、ユンカース型およびハインケル型爆撃機、ハインケル型戦闘機からなる強力な編隊は、450kgからの爆弾と、計算によれば3000個の1キロアルミニウム爆弾とを町に投下しつづけた。他方、戦闘機は屋外に避難した住民たちを機銃掃射するために、町の中心部上空に低空から進入した。… — ジョージ・スティアによる記事の冒頭部分(記述の正確性については後述)、 ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があった。これらの他には特に民家が標的となり、鉄道線路や郊外にある武器工場・兵舎は無事であり、またバスク地方の自治の象徴であるゲルニカの木とバスク議事堂も無事だったが、このことは「バスク人自らが町に火をつけた」というフランコ側の主張の根拠となった。同日のビルバオには『タイムズ』、『デイリー・エクスプレス』、ロイター通信、『ス・ソワール』の4人の国外からの特派員がおり、バスク自治政府の計らいでそれぞれ自動車と運転手が提供され、自由な取材が許されていた。4人はウェールズ人船長などとともにレストランの同じテーブルで食事中、午後9時半頃に政府役員によってゲルニカ爆撃の知らせを受けたとされている。記者たちは知らせを受けると、広報官の後に続いて自動車でゲルニカに向かい、爆撃翌日4月27日の午前2時にゲルニカに入ったが、このときにも町はまだ見渡す限り炎に包まれていた。記者たちは爆撃の状況を見て回ると再びビルバオに戻り、すぐに自身が所属する報道機関に打電した。 ゲルニカ爆撃を最初に報じたのはロイター通信であり、ロンドンでは、夕刊紙の『ザ・スター』、『イブニング・ニュース』、『イブニング・スタンダード』、『ニュース・クロニクル』が27日最終版に短報を掲載した。。『タイムズ』の記者であるジョージ・スティア(英語版)は、27日の早い時間にビルバオで避難民を取材してから、再びゲルニカに赴いて被害状況の取材を行い、ビルバオに戻ってから長い原稿を打電した。この記事は28日の『タイムズ』朝刊海外ニュース面と『ニューヨーク・タイムズ』朝刊1面に掲載され、過度な感情を排したスティアの記事は国際的に大きな反響を呼んだが、この時はまだ爆撃を報じた特派員の名前は明らかにされなかった。スティアは爆撃がドイツ軍によるものであることを突き止め、ドイツ軍が反乱軍側に立ってスペイン内戦に深くかかわっていることを世界中に暴露した。スティアの記事は爆撃の内容を伝えると同時に、世界中の新聞に転載されるなどして人々の「ゲルニカ観」を形成したことで、ヒュー・トマスは「スペイン内戦についてのもっとも有意義なレポート」と評した。ただし、アングロサクソン系の著作家たちがスティアの記事を完全で正確な記録であるとみなしているのに対し、主にスペインの歴史家はスティアに批判的であり、爆撃の回数・方法・爆弾の種類・火災の原因などの記述に疑問を呈している。ニコラス・ランキンの『戦争特派員 ゲルニカ爆撃を伝えた男』はスティアの生涯を追った書籍であり、中央公論新社によって邦訳されている。2006年にはバスク自治州政府がスティアの功績を称え、ビルバオにある通りをジョージ・スティア通りと名付け、その通りにスティアの銅像を建立した。 歴史家のハーバート・サウスワース(英語版)の調査によれば、当時のパリでは20紙ほどの新聞が発行されていたが、明確に共和国政府を支持する立場を取っていたのは2紙のみだった。反乱軍側の視点に立った保守的な立場を取る新聞が多く、共和国軍側に立ったスティアの記事は各紙の紙面に激しい論争を巻き起こした。イギリス議会下院では爆撃に対する質疑が出され、左派の労働組合会議と労働党がファシストを非難した。アメリカ合衆国議会では上下両院でゲルニカ爆撃が取り上げられて議論が交わされ、合衆国の著名人数百人がテロ行為を非難する訴えに署名した。ドイツはスティアの記事に激怒し、記事の一切を否定して『タイムズ』を非難すると、ドイツ軍の総司令官であるアドルフ・ヒトラーは同紙から受ける予定だったインタビューを断り、ゲシュタポ(秘密国家警察)はドイツ国内から同紙をすべて回収した。5月1日、パリでは史上最大と言われるメーデーのデモが行われ、過去に例を見ない数の市民が共和国広場からバスティーユに向かうコースを行進し、プラカードなどで反乱軍の爆撃を非難した。3月31日のドゥランゴ爆撃は日本でもすぐに報じられたが、ゲルニカ爆撃が日本で詳細に報じられることはなかった。5月1日付の『大阪朝日新聞』は「サンセバスチャン29日発」という見出しで短報を掲載したが、それまでスペイン内戦の動向を盛んに報じていた『東京朝日新聞』や『東京日日新聞』はゲルニカ爆撃に言及していない。『東京朝日新聞』記者の坂井米夫は反乱軍側からスペイン内戦を取材していたが、ゲルニカ爆撃を取材したことで反乱軍に煙たがられ、スペイン出国の際に足止めを食らった。
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第一報
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「2017年サンクトペテルブルク地下鉄爆破テロ事件」の記事における「第一報」の解説
2017年4月3日時点で捜査当局は、攻撃は自爆テロであり、中央アジア系の人物が被疑者であると考えられると述べていた。複数の報道では、被疑者は22歳のカザフスタン移民であるとあるとしたが、後にテロ犠牲者であると判断された。その後、被疑者としてあげられたのは23歳のキルギス系ロシア人であり、この人物は国際的過激派グループとの接点を持っているという。当初、警察は関与の疑いのある男2人の写真を公開していた。1人は直ちに警察に赴き無実を訴え、インテルファクス通信は関与したのは1人だけであると報道した。
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第一報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 18:10 UTC 版)
8月6日8時15分被爆。防空作戦室は爆心地から約790mに位置した。その強固な構造形式のため倒壊には耐えた。熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって中の人間が吹き飛ばされ鼓膜が破れる者も出るなど多くの負傷者を出した。 中国軍管区司令部があった広島城は爆心地に近かったため、原爆の閃光と同時に爆風が襲い、ほぼ全員が吹き飛ばされるか倒壊物の下敷きになった。司令部は1号庁舎の中央レンガ部分と拘置所の一部を残し爆風により壊滅した。司令部には当時1000人程度勤務し、うち軍人・軍属約700人、比治山高女教師生徒64人、拘置されていたアメリカ人捕虜2人が死亡した。防空作戦室の外にいたものはほとんどが亡くなったという。 広島原爆第一報をここから外電したのは岡ヨシエ(旧姓大倉)と荒木克子(旧姓板村)の当時14歳の比治山高女生徒2人である。以下、岡の手記「交換台と共に」から引用する。 ....(前略).... 一せいに出た相手の方に、「広島、山口、警戒警報発令」を、言いかけた途端ものすごい紫色の閃光が目を射り、何か事故が・・・と思う瞬間、意識を失った。2、3分もたったであろうか。回復しかけた、意識のぼやけた目に灰色一色だけが目に入った。 舞い上がった砂塵がしだいにおさまり、意識も完全にはっきりして次第に明るくなった部屋の中、私はすわって居た元の位置より2m位飛ばされていることに気づいた。机は横だおしになり、いすはこわれ、ただごとでない光景を目で追う中に、まだうすぐらい部屋の隅に板村さんが手で顔をおおってしゃがんで居る。思わずかけ寄ると彼女が手をはなした。目のまわりに血が・・・。 でもよかった、瞼にわずかの傷であった。2人は机をざっと元にもどして外に出ようと隣の部屋に入る。どの部屋も誰一人居ない。 板村さんより一歩おくれて外に出た私は一瞬呆然となった。今迄あった司令部も、あっちこっちの建物も、ないではないか。ただの木屑と壁土が山になっているだけ。私は思わず壕の土手の上にかけ上がった。広島の街は・・・。その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の町と化した広島であった。赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時初めて、「大変だ。」と血のさがる思いをしたのである。下の方で兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞう。」とどなって居るのが聞こえる。私は元の部屋にかけ込んだ。そうだまだ通話の出来る所へ早く連絡を、そう思いながら電話機を持った。九州と連絡がとれた。そして福山の司令部へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく 「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました。」 「なに新型爆弾!師団の中だけですか。」 「いいえ、広島が全滅に近い状態です。」 「それはほんとうか。」 大きくわれる様にひびく声。その内に火の手があがったのであろうか。壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。 「もしもし火の手がまわり出しました。私はここを出ます。」 「どうかがんばって下さいよ。」と兵隊さんの声を後に受話機をおく。再び外に出ると炊事場のあたりではもう火がまわりパチパチと木のはぜる音がする。その音にまじり建物の底から女の人の助けを求める声が耳に入った。....(後略).... — 岡ヨシエ、 同様に荒木の手記「軍管区指令部に動員されて」から引用する。 ....(前略).... 食事を終えて再び勤務にかえる途中、出勤の1班3班に出会い無邪気に朝のあいさつをかわした。それから数分後、あの恐ろしい原爆投下。 壕内で被爆したため、私達は大した怪我もなく、殆ど全員無事に避難することができた。私が壕の外へ出た時はあたり一面、煙幕をはったみたいで何も見えなかった。ただ倉田さんが顔一面に血が流れてまっかに見えたので、皆びっくりしたが大したことがなくホッとしたのを憶えている。その直後大倉さんと2人で消火のためのバケツをとりに壕内に引き返したのだ。四国軍管区指令部のある善通寺からの通信をいらいらしながら受けたのもその時。今思えば全市火の海になる位の被害の中でよく電話が通じたものだと不思議に思うがその時は早くすませたいの一心だった。案の定、外に出てみると級友は一人もいない。大倉さんと2人だけの行動はこれから始まる。....(後略).... — 荒木克子、 彼女たち生き残った生徒は、一旦避難したり、あるいは被爆後も司令部周辺に留まり救護活動している。その後彼女たちは再び司令部に集まり救護活動に務め、8月17日解散式となった。 なお、中国軍管区司令部による最初の公式発表は、8月6日15時か16時頃松村秀逸参謀長が中国新聞大佐古一郎記者に答えた形であった。ただこの時点では中国新聞も壊滅していたため公表されることはなかった。
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