気良村甚助の処刑
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宝暦7年10月26日(1757年12月7日)の暴動を指揮した気良村甚助、寒水村由蔵、大久角村喜平次、那比村助次郎の4名のうち、一番の首謀者と見られていた気良村甚助は藩側から特に目をつけられていた。宝暦7年12月3日(1758年1月12日)、郡上八幡城下にやって来ていた甚助は藩側に捕らえられ、全く吟味もなされないまま宝暦7年12月18日(1758年1月27日)、穀見の刑場でひそかに打ち首にされた。これは先の大野舎人による呼び出しにも関わらず、上之保筋の切立村喜四郎、前谷村定次郎両名の駕籠訴人は出頭せず、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗したことの意趣返しとの説がある。 当時としても、全く吟味を行うことなく理由も明らかにしないまま処刑を行うのは違法であり、事実を知った一揆勢は激しく抗議するが、藩側は「甚助の罪状はお前たちがよく知っているはずだ」と言うばかりで全く抗議に取り合おうとしなかった。この気良村甚助の違法な処刑は翌年の幕府評定所における郡上一揆吟味の際、郡上藩側の重大な手落ちとされ、藩主金森頼錦改易の理由の1つとされた。
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