大坂の陣後
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慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、息子の一人である堯政は父に先立ち戦死した。 主家の豊臣氏は滅び、大坂城は落城したが、堯熙は生存し、大坂の陣後は京都六条の屋敷にて閑居したともいわれている。没年および墓所については諸説有る(後述)。 徳川将軍家の旗本である清水氏の養子になった子孫がいる。
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大坂の陣後
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元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、千村平右衛門良重と山村甚兵衛良勝を召し出し、木曽を尾張藩に加封する旨を申し渡した。千村平右衛門良重は、木曽と隔たった信濃伊那谷と遠江北部にも所管地を有するため、尾張藩の専属になることをなかなか承知しなかった。徳川義直は、同家が木曾衆を代表する家柄だけに、なんとしてでも尾張藩専属を果たそうとして兄の将軍徳川秀忠に対し、尾張藩に属するよう命じられたいと談判に及んだ。結局、元和5年(1619年)、徳川秀忠の命令で幕府直臣(表交代寄合並)として信州伊那郡の天領の預地の支配と、遠州船明山榑木奉行のままで尾張藩の附属となった。千村平右衛門良重は、信州遠州預所管理をどうするかと老中を通して将軍に伺いを立てた。これに対しては今後も支配するように、との上意が下された。そこで千村平右衛門良重は、信濃管地は従来どおりとし、遠州奥の山を返上する代りに同国の船明村(現在の静岡県浜松市天竜区)の榑木改役を務めたい、と願い許可された。尾張藩付属の千村平右衛門家だが、同時に幕府の役職をも兼ねたため、実質的には幕府と尾張藩の両属的な立場となった。 寛永7年(1630年)、死去。享年65。子・重長が千村平右衛門家の家督を継いだ。
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