大坂の陣での活躍
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慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると、親豊臣的であった越前家をまとめ上げて、幕府方として参戦させた。 冬の陣の際は吉田好寛(修理)、山川朝貞、荻田長繁ら越前軍を率いて越前府中より出陣し、近江大津にて江戸から向かった藩主・忠直と合流し、富正と成重を左右の先手として大坂天王寺付近に布陣した。越前軍は藤堂高虎の計略が失敗した際の乱戦に巻き込まれ、軍令を無視して攻撃に入り、空堀に突入した両軍の頭上から鉄砲を撃ちかける木村重成隊や真田丸の真田信繁配下の軍により、加賀藩(前田利常)勢らと共に多大な損害を出している。後方の家康の陣より遣わされた安藤直次により退却命令が伝えられるが、忠直や井伊直孝勢らは退こうとせず被害が拡大、越前家の小栗正高が富正の馬印を奪取し引き上げさせたため、これを見た諸家の部隊は退却を始めた。のちに富正と成重は茶臼山の家康本陣に呼ばれ、家康から叱責を受けた(真田丸の戦いを参照)。 大坂夏の陣の際は養子の志摩を国許に残すが、志摩は勝手に大坂に駆けつけた。最終決戦の前日(5月6日)夜、富正と成重は再び家康の陣営に呼びつけられ、越前軍の働きの悪さを直接叱責された。この際の「日本一の臆病者」などの言われ様に憤った忠直以下の越前全軍は「一人も残らず忠直と共に骸を戦場の土と化し今日の汚名を滌ぐべし」として、夜間に吉田好寛の先導で最前線に移動し、加賀藩(前田利常)勢と決められていた先陣・一番槍の場を勝手にもぎ取る抜け駆けを行った。その際、富正は家臣らに「自分は討ち死にする覚悟であるので全員従うように」と通達している。 翌日(7日)朝、越前軍の最先頭に配置された富正は兵士に食を採らせ、充分に準備をした上で、真田信繁勢と正面から激突した。配下の将達、忠直の兄弟ら(忠昌ら)と共に、越前兵の精強さを見せつけた上で京橋口門脇の塀に富正自らが立ち、大坂城一番乗りの名乗りを挙げたのち手勢を率いて志摩共々に本丸に突入し、千畳敷の屏風や懸物を分捕り、一番乗りの証拠と手柄とした。富正配下が大坂方の将・大谷吉治を討ち取るなど、越前軍が挙げた首級は3,700とも伝わる。この越前軍の活躍は戦後、「掛カレ掛カレノ越前衆、タンダ掛カレノ越前衆、命知ラズノツマ黒ノ旗」という囃子歌が流行したほどに評判となった。 翌々日(9日)、家康本陣に呼ばれ、抜け駆けの件について叱責されるがこれを「吉田好寛の采配」と弁明している。10日には二条城にて、水野勝成との間で一番槍をめぐり審議を受けるか、証人もあり富正と認定された。これらの武功を賞され、家康から黄金50枚を拝領している。
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大坂の陣での活躍
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「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「大坂の陣での活躍」の解説
慶長19年(1614年)の大坂の陣では、義宣は徳川方として参陣した。義宣は、慶長19年9月25日、参勤のため久保田城を出立していたが、その途中、同年10月7日に大阪への出陣命令を受けた。これを受けて佐竹軍は同月15日以降、順次久保田城を出発し、江戸にいた義宣は同月24日に江戸を出発した。義宣が大阪へ到着したのは、同年11月17日である。 義宣は玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢とあたった。この際、渋江政光が戦死した(今福の戦い)。今福の戦いでの勝利は戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まった。大阪の役(冬の陣)において幕府から感状を受けたのはわずか12名であったが、うち5名を佐竹家中の者が占めたことからもそのことが分かる。
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大坂の陣での活躍
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大坂の陣において、冬の陣では妻籠の関所や信濃飯田城の守備を務め、夏の陣では天王寺口の戦いに参戦した。
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