大坂の役、和睦に尽力とは? わかりやすく解説

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大坂の役、和睦に尽力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:53 UTC 版)

大野治長」の記事における「大坂の役、和睦に尽力」の解説

慶長19年1614年6月22日片桐且元の弟である片桐貞隆と共に家康口添えで5,000石を秀頼より加増された。その返礼のために貞隆と家康のいる駿府次いで江戸将軍徳川秀忠訪ねた同年豊臣氏家老であった片桐且元追放されると、豊臣家主導する立場となる。その後豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人召抱えて大坂冬の陣に至る。治長は渡辺糺と共に鬮取奉行となって豊臣方中心一人として籠城戦指揮した徳川方から和睦持ちかけられると、12月8日から12日織田有楽斎と共に治長は徳川方本多正純および後藤光次との交渉行った淀殿江戸人質に行くこと、豊臣家浪人衆への俸禄のため加増すること、大坂城本丸のみを残して丸三丸を壊すことなどの双方提案まとめて和議成立をさせると、有楽斎と治長は和睦保証として人質を出すことになり、治長は次男治安弥七郎)を人質として家康差し出している。 しかし城内では和睦反対する意見多かった和睦後4月9日夜、治長は大坂城楼門闇討ち遭い護衛2名が死傷し本人一刀浴びて負傷した。これは主戦派の弟・治房による襲撃とも言われるが、襲撃犯は治房の家臣成田勘兵衛の手下(大和の小走組の今倉孫次郎)とされ、成田襲撃失敗する自宅放火し自殺し逃げた手下片桐邸や長宗我部邸に逃げ込み一部長宗我部盛親捕らえたという。 慶長20年1615年)の大坂夏の陣では、出撃する諸将に対して初め治長は大坂城本丸守備預かった4月28日紀伊和歌山城浅野長晟への攻撃前にして、治長は家臣北村大夫大野弥五左衛門紀伊潜入させて一揆扇動した計画失敗した5月6日誉田合戦では治長は後詰め指揮して膠着状態になった後、豊臣諸隊撤収した7日天王寺口の戦いでは、全軍後詰として四天王寺北東後方毘沙門池の南に布陣した。通説では秀頼の出馬待っていたとされる詳細は「紀州一揆」、「道明寺の戦い」、および「天王寺・岡山の戦い」を参照 総崩れとなって敗戦した後、茶臼山から撤退してきた治長は重傷負っており、出馬して討死するという秀頼を速水守久諌めたので、本丸引き上げて立て籠もることになった。秀頼淀殿らは近臣とさらにでに隠れるが、治長は最後の策として、独断将軍秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫脱出させ、彼女を使者として家康秀忠に秀頼母子助命嘆願させた。翌8日徳川方では審議があり、家康は孫の願いためらい見せたが、秀忠千姫が秀頼と共に自害しなかったとして激怒して、秀頼母子助命嘆願拒否した一縷の望み絶たれると、治長らは秀頼とともに大坂城山里曲輪自害した母親大蔵卿局長男の治徳も共に自害している。享年47。『春日社祐範記』は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前覚悟比類なし」と記している。

※この「大坂の役、和睦に尽力」の解説は、「大野治長」の解説の一部です。
「大坂の役、和睦に尽力」を含む「大野治長」の記事については、「大野治長」の概要を参照ください。

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