大坂の役、和睦に尽力
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慶長19年(1614年)6月22日、片桐且元の弟である片桐貞隆と共に、家康の口添えで5,000石を秀頼より加増された。その返礼のために貞隆と、家康のいる駿府、次いで江戸の将軍・徳川秀忠を訪ねた。 同年に豊臣氏の家老であった片桐且元が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至る。治長は渡辺糺と共に鬮取奉行となって豊臣方の中心の一人として籠城戦を指揮した。 徳川方から和睦が持ちかけられると、12月8日から12日、織田有楽斎と共に治長は徳川方の本多正純および後藤光次との交渉を行った。淀殿が江戸に人質に行くこと、豊臣家の浪人衆への俸禄のため加増すること、大坂城本丸のみを残して二丸三丸を壊すことなどの双方の提案をまとめて和議を成立をさせると、有楽斎と治長は和睦の保証として人質を出すことになり、治長は次男治安(弥七郎)を人質として家康に差し出している。 しかし城内では和睦に反対する意見も多かった。和睦後の4月9日夜、治長は大坂城の楼門で闇討ちに遭い、護衛2名が死傷し、本人も一刀を浴びて負傷した。これは主戦派の弟・治房による襲撃とも言われるが、襲撃犯は治房の家臣・成田勘兵衛の手下(大和の小走組の今倉孫次郎)とされ、成田は襲撃に失敗すると自宅を放火して自殺し、逃げた手下は片桐邸や長宗我部邸に逃げ込み、一部は長宗我部盛親が捕らえたという。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、出撃する諸将に対して初め治長は大坂城本丸の守備を預かった。4月28日、紀伊和歌山城の浅野長晟への攻撃を前にして、治長は家臣の北村善大夫、大野弥五左衛門を紀伊へ潜入させて一揆を扇動したが計画は失敗した。5月6日、誉田合戦では治長は後詰めを指揮して、膠着状態になった後、豊臣諸隊と撤収した。7日、天王寺口の戦いでは、全軍の後詰として四天王寺北東の後方、毘沙門池の南に布陣した。通説では秀頼の出馬を待っていたとされる。 詳細は「紀州一揆」、「道明寺の戦い」、および「天王寺・岡山の戦い」を参照 総崩れとなって敗戦した後、茶臼山から撤退してきた治長は重傷を負っており、出馬して討死するという秀頼を速水守久が諌めたので、本丸へ引き上げて立て籠もることになった。秀頼淀殿らは近臣とさらにでに隠れるが、治長は最後の策として、独断で将軍・秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を脱出させ、彼女を使者として家康と秀忠に秀頼母子の助命を嘆願させた。翌8日、徳川方では審議があり、家康は孫の願いにためらいを見せたが、秀忠は千姫が秀頼と共に自害しなかったとして激怒して、秀頼母子の助命を嘆願を拒否した。一縷の望みも絶たれると、治長らは秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。母親・大蔵卿局、長男の治徳も共に自害している。享年47。『春日社司祐範記』は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」と記している。
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