渡辺糺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 07:08 UTC 版)
渡辺 糺(わたなべ ただす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。槍術家。豊臣氏の家臣。通称を内蔵助(くらのすけ)とし、渡辺内蔵助の名の方が知られる。内蔵助流槍術の祖であり、船津流槍術の祖である船津八郎兵衛の師匠[2]。
- ^ 広く各地の渡辺氏は、源頼光の家臣・渡辺綱の後裔を称し、嵯峨源氏の伝統に従って代々一字名を名乗ることが多い。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “渡辺内蔵助”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2020年7月10日閲覧。
- ^ 昌(まさ)。諱は「登(のぼる)」ともする。摂津守とも。『寛政重脩諸家譜』は、松永久秀の家臣・渡辺宮内少輔に見立てる説を載せている。また『信長公記』に登場する元亀4年(1573年)に山城一乗寺山城(渡辺城)に立て籠もった足利義昭の家臣・渡辺宮内少輔と同一人物とする説もある。
- ^ 阿部 1990, p.852.
- ^ a b 徳富 1946, p. 272.
- ^ 『大坂譜代衆人数高本知高之事』による[5]。
- ^ 福本 1918, p. 225.
- ^ ただし福本日南は糺の知行を5,000石としている[7]。
- ^ 若者の集団のこと。
- ^ 真田増誉 国立国会図書館デジタルコレクション 『明良洪範』〈国書刊行会刊行書〉 全25巻 続篇15、国書刊行会、1912年、288-290頁 。
- ^ a b 福本 1918, p. 226.
- ^ a b 徳富 1946, pp. 290–291.
- ^ 部隊の配置や順番を決める役目。大野治長・渡辺糺・北川宣勝の3名が任命された[12]。
- ^ 湯浅 1909, pp. 696–697.
- ^ 東京大学史料編纂所 1917, p. 966.
- ^ 徳富 1946, pp. 480–481.
- ^ 徳富 1946, p. 518.
- ^ 東京大学史料編纂所 1917, p. 968.
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