合戦後
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徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍はそのまま二俣城を包囲してしまう(10月16日)。家康はこれといった対処を取ることができず、12月19日に二俣城は陥落した(二俣城の戦い)。これによって家康の遠江支配は揺らいだ。 二俣城陥落と前後して、家康は織田氏の増援を受けており、陥落後、武田の次の狙いは浜松城とみて篭城戦を決め込むも誘い出され、三方ヶ原で敗退した(三方ヶ原の戦い)。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 02:04 UTC 版)
関城は廃城となり、兼山城主となった森可成の支配下に入った。斎藤道三の近親で信長義弟ある斎藤利治が信長の命によって美濃国有力国人衆である佐藤忠能の養子(妻・正室院)となり、美濃斎藤家跡取りとして美濃国要所である加治田城城主を継いだ。又、佐藤忠能家臣団である加治田衆も斎藤利治の家臣団(親衛隊)となり、美濃佐藤氏も利治の親族・与力となる。二代目加治田城城主となった後、兄である斎藤利堯を留守居に要請した。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:13 UTC 版)
『堂洞軍記』などによれば、合戦後程なく加治田城主の斎藤利堯が死去したとされるが、信長葬儀直後の天正10年(1582年)10月18日付けで、秀吉が信孝の背信を詰った書状(浅野家文書・金井文書)は、岡本良勝と利堯宛てになっており、利堯は実際には死亡しておらず、信孝家臣の中でも代表的存在として仕えている。なお、『金山記』では米田城主の肥田忠政が同年中に病死したと記されている。 その後、斎藤利堯は信孝と秀吉の対立の中で、親族(甥にあたる)の稲葉一鉄に勧められて信孝から離れ、天正11年(1583年)5月、賤ヶ岳の戦いにより信孝が滅びてからは、誰にも仕えなかったと伝わる(武家事紀)。 加治田衆の多くは森家に任官し、加治田城は森氏の領地となった後に領土の維持・領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え廃城された。 森家に任官した加治田の武将軍団を森家では加治田衆として重要視された。その中心となった人物が井戸宇右衛門である(先の堂洞合戦で最後に討死にした岸信貞の嫡男である岸新右衛門も森可成の頃より加治田衆の一人として仕えた)。 美濃佐藤氏の一族である佐藤堅忠は兼山村一柳に寓居していたが、森忠政により徳川家康に推挙され、奉行職を歴任する。 斎藤利堯の家臣・長沼三徳と西村治郎兵衛は、隠棲しながら斎藤利治の遺児、斎藤義興、斎藤市郎左衛門の二人の男子を加治田城衣丸にて養育し、後に岐阜城主となった織田秀信に仕えた。また湯浅新六は隠棲し、後に「永禄美濃軍記」を記した。親族の斎藤元忠、斎藤徳元親子も織田秀信に仕え、織田家が没落すると徳元は江戸で和歌の教授者となった。 肥田忠政の子・肥田忠親は祖父の金森長近を頼り、その後、徳川家康より尾張藩徳川義直の家老を命じられ、以後、代々孫左衛門を名乗り尾張徳川家の家老職を輩出した。 肥田忠政の家臣・伊藤忠助・多田角右衛門は森家に仕え、小牧・長久手の戦いで長可と共に討死した(米田之庄肥田軍記)。 一方の森氏は東濃・北濃に勢力を持ち、秀吉の重臣となったが、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで長可が戦死し、鳥峰城は末弟の忠政が継いだ。忠政は、信濃川中島藩を経て美作国の大半を有する津山藩初代藩主となった。 この戦いに参陣した大島光義は丹羽氏へ任官した後、豊臣氏、徳川氏等に任官し、その後加治田領を含む関藩の藩主となった。加治田勢で戦った次男の大島光政は、徳川幕府旗本寄合席となり、川辺大島氏と加治田大島氏の血筋を遺すことになる。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/14 02:30 UTC 版)
野田城が落ちたことで、徳川家の三河防衛網が崩壊し、徳川家の重要拠点であった吉田城や岡崎城が危機に陥った。しかし、武田軍は信玄の病状が悪化したため侵攻を止めて甲斐へと引き返し、その道中で信玄は亡くなった。 3月10日に城主・定盈が徳川家と武田家の人質交換で解放された。 信玄の死が広まった直後に家康は長篠城を奪還するが、野田城も翌天正2年(1574年)に定盈によって奪還され、定盈が再度城主として入城している。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:59 UTC 版)
7月5日、家康、桑名城に入城。 7月12日、起用の際の約束通り、秀吉より滝川一益に3千石、子滝川一時に1万2千石の地が与えられる。 7月13日、家康、清洲城に帰還。 7月29日、秀吉、美濃・大垣城から大坂城に帰還。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 08:34 UTC 版)
八日町での合戦で当主江馬輝盛が討死し、江馬氏は急速に衰退。直ぐに姉小路氏は評定を行い、翌日に小島時光と小島基頼が江馬氏の本拠地である高原まで攻め込んで、高原諏訪城と支城を落とした。これによって事実上江馬氏は滅亡・追放した。 そののちは、白川郷を支配する内ヶ島氏を除き、飛騨国内には三木氏に抵抗する勢力はなくなり、三木氏(姉小路氏)が飛騨一国を平定した。 八日町の戦いの3ヶ月後、鍋山顕綱の謀が露呈し、飛騨三大勢力である牛丸氏・広瀬氏と共に追討された。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:36 UTC 版)
翌1509年から1510年にかけても小山田弥太郎の跡目を継いだ小山田信有(越中守)と信虎の戦いが続き、信直の妹を嫁がせる事で両者は和睦した。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 16:16 UTC 版)
堂洞城落城の夜、信長は加治田城の佐藤父子の屋敷一泊し、翌8月29日に城下で岸方の首実検を行った。 それから犬山へ帰る途中、関の長井道利勢と、井ノ口(岐阜)からの斎藤龍興軍3,000が織田軍を攻撃してきたが、織田軍は手勢が800ばかりしかなく合戦は無理であったので、ひろ野へ退き体制を整えてかかるように見せかけておいて、一目散に鵜沼に退いた。関勢は加治田城を攻める様子だったので、信長は斎藤利治を援軍として派遣。関・加治田合戦の結果、関城は落城した。 なお、堂洞城は落城後に廃城となったが、後の加治田・兼山合戦において、森長可の本陣として使われた。 岸氏一族である岸信周・信房・信貞の兄弟と子らは合戦後も一族滅亡はなく、それぞれに岸氏を存続させ、現代に至っている。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 05:23 UTC 版)
この合戦で活躍した半兵衛に対し、龍興は褒賞するどころか前と相変わらず馬鹿にしたりしたため、翌年2月に自身の留守中に僅か16人で居城・稲葉山城を乗っ取られた。その半年後城は返されたものの半兵衛は斎藤家を出奔。斎藤家衰退に拍車をかけてしまった。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 02:03 UTC 版)
1月6日、信長は岐阜で急報を受けた。折から大雪であったが、信長と松永久秀はただちに出立し、京に急行した。 1月10日に10騎足らずの供を連れて本国寺に到着したが、すでに三人衆は撤退していた。非常な寒さと急な出立により、配下の陣夫などに凍死者が数人出たという。 信長は本国寺の堅固な様子には満足しつつも、今後は「御構へ」すなわち防御力のある城郭としての機能を備えた将軍御所がなくてはならないと考え、上京と下京の中間にあった義輝の二条御所跡を拡張して新城とすることにした。東西3町南北3町規模の「武家御城」(二条城)の造営は信長自らが総指揮を行い、大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。この新城は石垣を多用し、二重の堀と複数の出丸を備え、内郭には三重の天守、外郭には奉公衆ら家臣の屋敷を配した近世的城郭であったと考えられている。わずか70日ほどで造営されたため、新城の建物は本国寺の建築物を解体・移築したものが多く、さらに屏風や絵画などの什器までも同寺から運び込まれた。建築物などを奪われることについて、僧侶らは松永久秀に信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供と引き換えに免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかったという。城は4月に完成し、将軍義昭が移座した。なお元亀3年(1572年)3月、義昭の強い勧めがあり信長は城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。
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合戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 09:15 UTC 版)
「ミルウィウス橋の戦い」の記事における「合戦後」の解説
コンスタンティヌス軍が勝利を収め、コンスタンティヌスは、10月29日にローマに入城した。ティベリス川から引き上げられたマクセンティウスの遺体は検めて斬首されて、ローマ市民が見物する中で市内の通りを首を晒して回った。式典の後、マクセンティウスの首はカルタゴへ送られた。マクセンティウスの遺児2人は処刑され、マクセンティウスに連なる者は悉く殺害されたとされる。ただし、一説にマクセンティウスの子とされるアントニウス・ドナトゥスなる者が逃げ延び、子孫を残したともされる。アントニウス・ドナトゥスの血筋は少なくとも20世紀の終わりまで存続しているという。 ミルウィウス橋の戦いの結果、ローマ帝国の西半分の支配権をコンスタンティヌスは手中に収めることとなった。戦勝後に今までの皇帝が行っていたカピトリヌスの丘にある神殿での儀式を一切無視して、皇宮に向かった。コンスタンティヌスは元老院が持つ先祖伝来の種々の特権を認めた一方で、元老院もコンスタンティヌスにありとあらゆる称号を授与した。マクセンティウスにダムナティオ・メモリアエを実施し、マクセンティウスが策定した法令は全て無効であると宣言した。 ちなみに、マクセンティウスはローマ市内で「ロムルスの寺院」(Santi Cosma e Damiano)や「マクセンティウスのバジリカ」等、多数の建造物を建築していたが、全てコンスタンティヌスが完成させて、自らの功績とした。
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