合戦後の情勢
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この戦いに勝利した毛利軍は、翌日2月15日(3月21日)に尼子再興軍に包囲されていた月山富田城を開放し兵糧を入れることに成功する。このとき城内では兵糧が全く無くなっており、落城寸前の危険な状態であった。輝元ら毛利軍は籠城していた将兵らを賞すると共に軍をここで再編すると、同月下旬ごろ尼子再興軍の居城・末次城を攻撃するため約7,000の兵を率いて出陣する。これに対し尼子再興軍は、末次城は平城であるため籠城に向かないと判断し城を捨てて新山城へと退却した。 その後、毛利軍と尼子再興軍は山陰の各地で激しい戦いを繰り広げていくこととなる。毛利元就が居城である吉田郡山城で容態が悪化し元春の軍を残して毛利軍が帰還したときには、一時的に尼子再興軍が勢力を盛り返したこともあったが、すぐさま元就が直属の水軍部隊を派遣したため兵力で勝る毛利軍が次第に尼子再興軍を圧倒していった。そしてこの戦いから約1年6ヶ月後の元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、出雲の最後の拠点である真山城が毛利軍の攻撃を受け落城する。城に籠もっていた勝久は隠岐に脱出し、尼子再興軍は出雲国より一掃されることとなった。
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合戦後の情勢
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この合戦は、宇喜多直家がその生涯で唯一正攻法で敵に当たり、最も華々しい大勝利を収めた戦いであると評され、その戦術・戦略の妙を近隣諸国に知らしめた戦いであった。この合戦で、宇喜多氏は、最大の対抗勢力であった三村氏を備前国西域から撃退し、鉄砲鍛冶場として有数の福岡(現:岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地を握ったことにより、浦上家中におけるさらなる発言力と独立性を確保した。この後、宇喜多氏は、浦上氏の被官の身でありながら戦国大名としての地位を備前に確立していくこととなる。
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