阿保藩
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阿保藩(あぼはん)は、徳川家康が関東に入国した際に上野国(現在の群馬県)に置かれたとされる藩。菅沼定盈に1万石が与えられて成立したが、関ヶ原の戦いののちに子の定仍が伊勢長島に転出したため、約10年で廃藩となった。菅沼定盈が配置されたのは「上州阿保」とされ、文献によっては新田郡(太田市周辺一帯)の「阿布」という土地ともされるが、いずれにしても所在不明で実態がはっきりしない[1][注釈 1]。「阿保」は上野国との国境にほど近い武蔵国賀美郡元阿保村(現在の埼玉県児玉郡神川町大字元阿保)であるとする説があり、この説を採用する事典もある[注釈 2]。
注釈
- ^ 『角川日本地名大辞典』では「藩の存立には疑問が残されている」とまで記されている[2]。
- ^ 後述の長谷川典明の論文(1989年)の発表以後の出版物では、『日本歴史地名大系 埼玉県の地名』(平凡社、1993年)が菅沼定盈の封地「阿保」とは武蔵国元阿保であると明示している。一方、『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版社、1996年)の「近世大名配置表」においては、上野国新田郡の藩として一覧に掲出しており[3]、『藩と城下町の事典』(東京堂出版、2004年)は群馬県(新田郡)に所在した藩として記載している。
- ^ 野田城の戦いで知られる。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ なお、安保町は安保領内の町場であることからこの名で呼ばれ、本庄宿と七日市宿を結ぶ脇往還(下仁田街道)の宿駅であった[13]。
- ^ 原本では「丹生村」と誤っている[16]。
- ^ 元阿保には「安保氏館跡」という史跡がある。
- ^ 賀美郡特産の煙草が江戸で「上州煙草」として販売される、元阿保村の隣村である四軒在家村の割元名主(大庄屋)を上州側の村が務めていた時期があるなど[15]。
出典
- ^ a b c 長谷川典明 1989, p. 10.
- ^ “阿保藩”. 角川地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版社、1996年)p.1299「近世大名配置表」
- ^ a b c d 長谷川典明 1989, p. 9.
- ^ a b 長谷川典明 1989, p. 11.
- ^ 長谷川典明 1989, pp. 11–12.
- ^ 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』75/87コマ。
- ^ 『徳川加封録・徳川除封録』, pp. 加1之69-70.
- ^ 長谷川典明 1989, p. 18.
- ^ 『日本歴史地名大系 埼玉県の地名』, p. 265, 「元阿保村」.
- ^ “元阿保村(近世)”. 角川地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ “賀美郡”. 角川地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之二百四十四「阿保町」、内務省地理局版活字本『新編武蔵風土記稿 賀美郡第二』2丁表
- ^ 長谷川典明 1989, pp. 12–13.
- ^ a b c d e 長谷川典明 1989, p. 13.
- ^ a b 『群馬県史 第2巻』(1927年)、p.17 国会図書館デジタルコレクション該当部分
- ^ “川越・児玉往還を歩く”. 街道歩き旅. 2022年10月9日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b 長谷川典明 1989, p. 15.
- ^ a b 長谷川典明 1989, p. 12.
- ^ 長谷川典明 1989, pp. 15–16.
- ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻之二百四十四「元阿保村」、内務省地理局版活字本『新編武蔵風土記稿 賀美郡第二』1丁裏
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之二百四十五「大御堂村」、内務省地理局版活字本『新編武蔵風土記稿 賀美郡第三』1丁表
- ^ 長谷川典明 1989, p. 14.
- ^ 長谷川典明 1989, pp. 13–14.
- ^ a b c “上野 菅沼城”. 城郭放浪記. 2022年10月9日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b c d “上野・菅沼城 菅沼定清とは 安中の海雲寺は招き猫の寺”. 城旅人. 2022年10月9日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b c d “菅沼城”. 古城盛衰記. 2022年10月9日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ “菅沼城”. 古城址探訪. 2022年10月9日閲覧。[信頼性要検証]
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