守谷藩とは? わかりやすく解説

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守谷藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 17:17 UTC 版)

守谷藩(もりやはん)は、下総国相馬郡守谷(現在の茨城県守谷市)を居所として、徳川家康の関東入部から江戸時代前期まで存在した[1]土岐定政(菅沼定政)が1万石で入封し、1617年に2代目の土岐定義摂津国高槻藩に移封された。その後、3代目の土岐頼行が1619年に領地を相馬郡内1万石に移されているが、頼行を「守谷藩主」として扱うかについては解釈が分かれる。頼行は1628年に出羽国上山藩に移封された。


注釈

  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』によれば、明智頼重の子孫という[11]
  3. ^ 『藩と城下町の事典』では「上山藩」の項で、「下総国相馬から土岐頼行が入封」と記す[28]
  4. ^ 『日本史広辞典』の一覧表「大名配置」は主要な藩のみを扱っており、守谷藩の掲載はない。高槻藩の項目では1617年に土岐定義が「下総守谷」から入封し、1619年に土岐頼行が「下総国内」に転封されたと記す[29]。ただし、上山藩の項目では1628年に土岐頼行が「下総守谷」から入封したことが記されている[30]。なお、安中藩の項目には1667年に堀田正俊が「相模・下総・常陸国内」から入封したとあり、堀田正俊の「守谷藩」は認めていないことになる[31]
  5. ^ 堀田正俊の政治思想について検討した論文で小川和也は、正俊は「守谷藩」の藩主であるとしている[32]。一般的には土岐氏(土岐定義の高槻移封)以後「藩」が存在しなかったとされていることについて触れたうえで[33]、注釈で「ここには「藩」とは何か、という大きな問題がある」(が詳述する余地がない)としている[34]
  6. ^ 『寛政譜』によれば寛永5年(1628年)、伊丹康勝は加増を受けるとともに、それまでに与えられた領地が移され、下総国相馬郡で9000石を知行したという[37]。なお、土岐頼行の正室は伊丹康勝の娘である[16][38]
  7. ^ 承応2年(1653年)に康勝が死去すると勝長が家督を継ぎ、相馬郡の1000石の領地は収公された[20][39]
  8. ^ 養母春日局から継承した知行地[40][41]。相模国高座郡にあった[42]
  9. ^ 『改訂増補 守谷志』では、正俊が幼少であったために守谷城に入らず江戸にとどまったと記すが[43]、大名が「居所(居城・国元)」に赴かないことは必ずしも特異な事態ではない。ごく小規模の藩では、知行地には郷役人のみを配置し、その他の藩士はすべて江戸に在住するという例もある[44]
  10. ^ 文書の成立年は未詳[2]。『角川地名大辞典』は「鎌倉時代後期」としている[2]
  11. ^ 下館から守谷・取手を経由して柏に至る交通路は、現代の国道294号に引き継がれている。

出典

  1. ^ a b c 守谷藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年5月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 守屋(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年5月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.580
  4. ^ a b c d e 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>①初代守谷藩主、土岐定政(さだまさ)(一五五一~一五九七)”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  5. ^ 第四章 守谷城>三、守谷城の築城者>古文書にみる「モリヤ」の地名”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  6. ^ a b c 第五章 相馬氏の歴代当主>三、七代相馬胤基~二十代治胤>守谷城進上”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  7. ^ 第四章 守谷城>二、守谷城の概況>守谷城の名称は相馬要害・将門城”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  8. ^ a b c d 第四章 守谷城>五、相馬要害から新守谷城の誕生”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  9. ^ 第五章 相馬氏の歴代当主>三、七代相馬胤基~二十代治胤>小田原合戦”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  10. ^ 第五章 相馬氏の歴代当主>三、七代相馬胤基~二十代治胤>浅野長政・木村重茲(しげます)連書禁制状”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  11. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.577
  12. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.578
  13. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.578-579
  14. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.579
  15. ^ a b c 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>②二代守谷藩主土岐定義(さだよし)(一五八〇~一六一九)”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  16. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.581
  17. ^ 藤本篤. “高槻藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2023年5月6日閲覧。
  18. ^ 沿革>六、土岐氏居城”. 改訂増補 守谷志(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  19. ^ a b c 取手市埋蔵文化財センター開館15周年記念第36回企画展 大地を切り拓いた人びと”. 取手市埋蔵文化財センター. p. 2. 2023年5月6日閲覧。
  20. ^ a b c d 第23回企画展 江戸時代の取手 相馬二万石と谷原三万石”. 取手市埋蔵文化財センター. p. 2. 2023年5月6日閲覧。
  21. ^ a b 『角川新版日本史辞典』, p. 1302.
  22. ^ a b 指定文化財の紹介 工芸品”. 守谷市. 2023年5月6日閲覧。
  23. ^ a b c d e f g 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>③三代守谷藩主土岐頼行(よりゆき)(一六〇八~一六八四)”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  24. ^ 『大猷院殿御実紀』巻九・寛永四年三月十四日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』p.111
  25. ^ a b c d e 守谷町(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年5月6日閲覧。
  26. ^ 『藩と城下町の事典』, p. 160.
  27. ^ 加藤貞仁 (2015年6月26日). “~やまがた~藩主の墓標/(23)沢庵と上山との縁”. yamacomi. 山形コミュニティ新聞社. 2023年5月6日閲覧。
  28. ^ 『藩と城下町の事典』, p. 84.
  29. ^ 『日本史広辞典』, p. 90.
  30. ^ 『日本史広辞典』, p. 80.
  31. ^ 『日本史広辞典』, p. 82.
  32. ^ 小川和也 2007, pp. 40–41.
  33. ^ 小川和也 2007, p. 40.
  34. ^ 小川和也 2007, p. 79.
  35. ^ 第八章 近世の守谷の支配者>一、近世、守谷藩の成立”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  36. ^ 第四章 守谷城>二、守谷城の概況>守谷城の歴史的環境”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  37. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百七十六「伊丹」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.480
  38. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百七十六「伊丹」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.482
  39. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百七十六「伊丹」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.481
  40. ^ a b c d e 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>④第四代守谷藩主堀田正俊(まさとし)(一六三四~一六八四)”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  41. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第六百四十五「堀田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.417
  42. ^ a b 小川和也 2007, p. 41.
  43. ^ 沿革> 七、堀田備中守正俊居城”. 改訂増補 守谷志(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  44. ^ 白峰旬『土芥寇讎記』における「居城」・「居所」表記に関する一考察」『別府大学大学院紀要』第10号、108頁、2008年http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk01009 
  45. ^ a b 小川和也 2007, p. 87.
  46. ^ a b 小川和也 2007, p. 88.
  47. ^ 小川和也 2007, pp. 41–42.
  48. ^ a b c d e f g h 第八章 近世の守谷の支配者>二、歴代の支配者>⑤第五代守谷藩主酒井忠挙(ただたか)(一六四八~一七二〇)”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  49. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五十九「酒井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.320
  50. ^ 沿革> 八、酒井河内守忠擧所領”. 改訂増補 守谷志(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  51. ^ a b 第四章 守谷城>三、守谷城の築城者”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  52. ^ 第四編>第一章>第三節 土岐氏の守谷入城>土岐氏の入府”. 守谷町史(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  53. ^ 第三編>第六章>第四節 守谷城>本城の立地”. 守谷町史(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  54. ^ a b c d e f 第四章 守谷城>五、相馬要害から新守谷城の誕生>守谷城の縄張”. 守谷城と下総相馬氏(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  55. ^ a b c d 第四編>第三章>第一節 村落の歴史>守谷町”. 守谷町史(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。


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