土岐定政
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土岐 定政(とき さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃土岐氏庶流・明智氏の一族を称し、明智一族が離散した際に母方の菅沼氏を頼って三河に逃れたものとした。少年時代から徳川家康に近侍し、菅沼定政(通称は藤蔵)として多くの戦いで武功を挙げた。家康の関東入部後は下総国守谷(現在の茨城県守谷市)で1万石の領主となり、家康の命を受けて名字を土岐に改めた。
注釈
- ^ 『上野沼田 土岐家譜』は、1872年(明治6年)に土岐頼知(旧沼田藩主)が宮内省に提出した家譜[4]。
- ^ 軍語物語『明智物語』においては、土岐定明は弟の土岐(遠山)定衡に招かれた宴の席上で討たれ、幼い愛菊丸(定政)は一族とともに家臣に護衛されて、菅沼常陸介を頼って落ち延びたとしている。なお、『明智物語』において明智光秀は定明・定衡の弟と記された。
- ^ 『身延町誌』が引く『甲斐国志』によれば、穴山信君(梅雪)の所領であった「河内領」は、天正10年(1582年)の梅雪の横死後は継嗣の穴山勝千代に継承されたが、天正15年(1587年)に勝千代が夭折したために、領知は徳川家康によって収められ、改めて菅沼藤蔵定政に与えられたという[8]。慶長の頃に菅沼定政の所領は9000石であったとある[8]。
- ^ 『寛政譜』によれば、定仙ははじめ今川家に従い、次いで徳川家康に仕えたが、その後武田信玄に仕え、元亀2年(1571年)に再度家康に従ったとある[3]。
- ^ 国立公文書館デジタルアーカイブの『続群書類従』[14]や、『大日本史料』第11編之1の明智光秀卒伝に関連して引かれたもの[15]で確認できる。
- ^ 頼明の兄・頼典が廃嫡されたことは『寛政譜』にも記載がある[1]。
- ^ 『明智氏一族宮城家相伝系図書』によれば、光秀の祖父にあたる人物は明智光継とある[13][19]。
出典
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.577。
- ^ “其の十一 鉄砲玉と井代城”. しんしろ 家康紀行. 新城市. 2023年7月9日閲覧。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第三百二「菅沼」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.648。
- ^ 宝賀寿男. “明智光秀の系譜 Ⅱ(詳細版)-「宮城家系図」等の検討を通じてみる-”. 2023年5月26日閲覧。
- ^ 『上野沼田 土岐家譜』
- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.578。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.579。
- ^ a b “第四章>第一節 天領下の村の概況(市川代官支配)”. 身延町誌. 2023年7月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.580。
- ^ a b 『東照宮御実紀附録』巻二十五、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.360。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.580-581。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十一「土岐」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.577-578。
- ^ a b c 小和田哲男 (2019年12月24日). “悲運の武将・光秀、出生の謎を解き明かす”. AERA dot.. p. 2. 2023年5月26日閲覧。
- ^ “続群書類従 百二十八 土岐系図”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. p. 30/33コマ. 2023年5月28日閲覧。
- ^ “大日本史料 第11編之1”. 国立国会図書館デジタルコレクション. p. 516. 2023年5月28日閲覧。
- ^ a b “「光秀の贈り物」も展示 土岐氏との関係考える特別展 沼田市歴史資料館 来月18日まで開催”. 東京新聞. (2020年1月5日) 2023年5月26日閲覧。
- ^ “特別展 明智光秀と沼田藩土岐氏”. 沼田市歴史資料館 2023年5月26日閲覧。
- ^ “大河主人公 明智光秀と沼田藩土岐氏”. 朝日ぐんま. (2020年2月7日) 2023年5月26日閲覧。
- ^ “大日本史料 第11編之1”. 国立国会図書館デジタルコレクション. p. 517. 2023年5月28日閲覧。
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