羽柴秀勝
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羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の四男[注釈 1]で、家臣の羽柴秀吉が養嗣子として迎え入れた。幼名は於次(おつぎ)または於次丸(おつぎまる)。
注釈
- ^ a b もしくは『天正記』・『 惟任退治記』などでは五男とも言う。史学的推測では勝長(信房)の方が年長であろうという生年の順序の問題のほか、信長の庶長子であるという説がある織田信正の存在を数えるかどうかでも変わってくる。ただ、諸系図の表記では地位の序列が優先されるため、通例四男とされる。
- ^ 養観院は(信長の次女)相応院の母と同一人物であるという説もあり、その場合は蒲生氏郷は於次丸秀勝の義兄弟にあたることになる。
- ^ 信長もおねの真意を察したからこそ、夫の浮気に悩む彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、消息にもかかわらず、あえて公式文書を意味する「天下布武」の朱印が押されている。
- ^ 異説として、信長の八男長丸が位牌を持ったとも言う。
出典
- ^ a b 森岡榮一「羽柴於次秀勝について」『市立長浜城歴史博物館年報』1号、1987年。
- ^ a b 渡辺 1919, p.61
- ^ 宮本義己「北政所の基礎知識」『歴史研究』456号、1999年。
- ^ 宮本義己「戦国時代の夫婦とは」『歴史研究』488号、2002年。
- ^ 川口素生『お江と徳川秀忠101の謎』PHP研究所、2010年。ISBN 9784569675633。
- ^ 柴 2011[要ページ番号]
- ^ 渡辺 1919, pp.61-63
- ^ 徳富 1935, pp.135-138.
- ^ 西尾和美 著「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸編 編『西国の権力と戦乱』清文堂出版、2010年。
- ^ 渡辺 1919, p. 72.
- ^ 来夢来人 (2011年6月28日). “特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」テーマ展「謎の秀吉子息たち~三人の秀勝~」展”. 歴史~とはずがたり~. 2022年11月19日閲覧。
- ^ 佐久間尊之 (2020年1月29日). “羽柴秀勝”. note. 2022年11月19日閲覧。
羽柴秀勝(はしば ひでかつ)
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「センゴク」の記事における「羽柴秀勝(はしば ひでかつ)」の解説
通称は於次丸、丹波少将とも。秀吉の養子だが元の出自は信長の四男。風貌は実父の信長や兄達に似ず爽やかな美青年。家中の二大勢力となった羽柴家と柴田家の誼を作るため、一時は従妹に当たる茶々との婚姻が決まるも後に両家の決裂により反故となった。茶々とは一度、互いの正体を知らずに出会っており一目惚れしていたほどだが、羽柴家と毛利家の和睦のため、毛利輝元の養女と婚姻した。その後は、病気がちで秀吉の後継者からは外されつつあったが、四国征伐後の1585年末に病死した。
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羽柴秀勝(はしば ひでかつ)
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