生母は諸説あり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:14 UTC 版)
「羽柴秀勝 (石松丸)」の記事における「生母は諸説あり」の解説
宝厳寺の「竹生島奉加帳」には「御内方」(正室の寧々)、「大方殿」(母の仲)に続いて「石松丸」、「南殿」の名が記されており、これは秀吉の子とその母である側室を記したものであると推定され、桑田忠親はゆえに生母は側室・南殿であると推測しているが、服部英雄は側室にしては寄進額がだいぶ少ないし、まして石松丸の母とする説には何も根拠がないと反論する。 一方、妙法寺寺伝には生母は松の丸殿(京極竜子)であると書かれているが、彼女が秀吉の側室となったのは天正11年(1583年)頃であり、天正2年(1574年)に秀勝を生んだという内容は、側室となったと推定される時期とかなりの齟齬があり、当時はまだ夫である武田元明が生きていたはずである。木下勝俊と木下利房にも、元明と竜子の子であるという奇説があるが、併せて信憑性には問題がある。
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