武田元明(たけだ もとあき) 1552~1583
武田元明
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武田 元明(たけだ もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、若狭国の守護大名。武田義統の子で、若狭武田氏の第9代当主。後瀬山城(旧・若狭小浜城)主。諱は、元次(もとつぐ)ともいう[4]。
注釈
- ^ 天正10年(1582年)に享年21からの逆算。
- ^ 『若狭国志』では没年齢を21歳、『若州観跡録』では没年齢を31歳としており、没年齢については2説ある。
- ^ 分家(信豊の弟山県盛信の子孫)が残した『武田系図山縣本』でも享年を31、生年を天文21年とする[1]。
- ^ 武田信玄が朝倉義景に送った書状には「孫犬丸幼少」と書かれていること、天正年間に入っても「孫犬丸」表記が見られる(『信長公記』)ことから、享年21と考えるべきとする見解もある[17]。
- ^ 『群書系図部集』では、4つ載せている若狭武田氏の系図の一つ、若州武田系圖別本(狩野永納によるとする)に、勝俊は武田元明の子で、母は松丸殿と記されていたとする。ただし同書は秀吉が松丸殿を妾にするために元明を殺して奪ったと書くが、続けてこの説は大間違い(大謬)であるとも書いており、他の3つの系図には勝俊の表記はなく、あくまで異本の1つを紹介しているに過ぎない[19]。
出典
- ^ a b c d 塙 & 太田 1973, p. 65
- ^ a b c 木下 2016, p. 47
- ^ a b c d e f g 谷口 1995, p. 241.
- ^ a b 塙 & 太田 1973, p. 64
- ^ 須田 1970, p. 84.
- ^ 河村 2021, p. 192.
- ^ 木下 2016, p. 46.
- ^ 武田信玄書状「朝倉家文書」『戦国遺文 武田氏編第三巻』1551号
- ^ a b 太田牛一; 中川太古『現代語訳 信長公記』(Kindle)中経出版〈新人物文庫〉、2013年、90-91頁。ASIN B00G6E8E7A
- ^ 木下 2016, p. 48.
- ^ 久野雅司「織田信長と足利義昭の軍事的関係について」『白山史学』第53号、2017年。/所収:久野雅司『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版、2019年、137-140頁。ISBN 978-4-86403-326-8。
- ^ a b c d 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 1537.
- ^ 谷口 1995, pp. 241–242.
- ^ a b 谷口 1995, p. 242.
- ^ 須田悦生『国立国会図書館デジタルコレクション 若州三潟郡佐柿国吉籠城記 : 校註』福井県美浜町文化財保護委員会、1970年、83頁 。
- ^ 永江秀雄 著「国立国会図書館デジタルコレクション 武田元明の最後について」、福井県郷土誌懇談会 編『若越郷土研究 13(4)(71)』福井県郷土誌懇談会、1968年、87頁 。
- ^ 河村 2021, p. 204.
- ^ 河村 2021, pp. 207–208.
- ^ 塙 & 太田 1973, pp. 62–63.
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