若狭の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 23:41 UTC 版)
天正元年(1573年)8月、越前国や若狭国で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に加わり、信長の命令で義景の母(高徳院)や妻(小少将)、子の愛王丸を処刑した。 9月、長秀は若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。若狭国内での当初の大まかな知行宛行は、遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。このころの長秀の家臣として溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏および旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。 なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった。
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