若狭国の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 05:26 UTC 版)
『延喜式』によると、若狭国は10日毎に「雑魚」、節日ごとに「雑鮮味物」、さらに年に一度「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納めることが定められている。 また、上述の藤原京跡や平城京跡より発掘された木簡から、調は絹や麻などの糸や布で納められることが一般的だったことが判っているが、若狭国では塩により調が納められていた。 若狭には8世紀以降使用されていたと思われる製塩施設が、船岡遺跡・岡津遺跡(旧大飯郡)などで発見されている。これらの製塩施設は大規模で、周辺住民が日々に使用する塩を作るためというより、時の権力による強制力により労働力が集められて、製塩が行われたと考えられている。 若狭国の地理的特長を見ると、海岸線はリアス式海岸で複雑に入り組んでおり、対馬海流の影響で海産物に恵まれている。一方で平野部は狭く限られており、田畑の面積は少ない。また、若狭国は、8世紀に置かれた郡は遠敷郡、三方郡の2郡であり(9世紀に大飯郡が遠敷郡から分離して3郡に)、近国で一国二郡は志摩国、淡路国とあわせて3国しかなかった。このように田畑の少ない場所が国単位として成立していたことは、皇室・朝廷にとって特殊な場所であったと推定される。
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