若狭国主とは? わかりやすく解説

若狭国主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:13 UTC 版)

京極高次」の記事における「若狭国主」の解説

関ヶ原の戦いの後、徳川家康西軍軍勢大津引きつけ関ヶ原へ向かわせなかった高次功績高く評価した高次井伊直政からの使者を受け、早々に高野山下りるように伝えられる初め高次はこれを断ったが、更に山岡道阿弥送られ、それに弟の高知加わった説得受けて下山した。高次大坂家康会い若狭一国85,000石へ加増転封され、後瀬山城に入る。慶長5年10月小浜入り翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増される。 大坂の陣控えた徳川家康の命により、高次新たに日本海北川南川囲まれ雲浜に、二条城似た小浜城築き始めたまた、後瀬山の麓に残った城跡武家屋敷町屋として街路整備し新たな街区設けるなど、小浜城下町整備した家康からの信任厚かったようで、以下の書状受けている。 御折紙 殊に生鮭到来祝着之至に候、将又其国之儀雖小国候、爰元手寄に候間、先進上候處、 御気に入御有付之由承候、左様候得者、弥令満足候、猶井伊兵部少輔可申候、 恐々謹言 十月十四日 家康 京極宰相殿 イエズス会の「一六一年日本年報」には、高次および正室の初が受洗したとの記事がある。1601年10月から1603年2月までの出来事報告した一六〇二年度日本年報」には「本年我ら大いなる喜びとともに京極マリア Qeogocu Maria息子若狭の殿である宰相殿 Saixodono がキリシタンになった。この日本のキリスト教界は、長年なかったあの平和を保っているので、あの(若狭)国でも、また彼の兄弟キリシタンでもある修理殿 Xuridono の領する丹後でも、大きなキリスト教界が作られ、神の法が大いに宣べられるように」と高次受洗弟・高知の様子とともに明記している。 家康慶長7年1602年9月ルソン総督朱印状で、外国人外国の法(キリスト教のこと)を持ち込むことを禁止したが、国内向けにも貴人入信禁止断言した。しかし同時期に家康宣教師介在させる必要のあるルソン貿易取り組んでいたため、貴人入信禁止令は厳格に守られなかった。 京極家改宗公にはされていなかったようで、「一六三年日本年報」には、「都の近くに、京極マリア Qiogocudono Mariaの人の息子がいる。各々一国有し、彼らと彼らの奥方洗礼受けているが、公方様(徳川家康)を怒らせるではないかという不安のためにそのことをあえて公表していない」とある。 慶長14年1609年5月47歳没し長男の忠高が跡を継いだ高野山奥の院には大津城討死した22名の家臣供養する石碑が、慶長5年9月13日日付と共に残っている。

※この「若狭国主」の解説は、「京極高次」の解説の一部です。
「若狭国主」を含む「京極高次」の記事については、「京極高次」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「若狭国主」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「若狭国主」の関連用語

若狭国主のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



若狭国主のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの京極高次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS