武田元信(たけだ もとのぶ) 1455~1521
○彦次郎 紹壮 伊豆守 治部少輔 大膳大夫
◇父:武田国信 子:武田元光、信孝
若狭守護・武田氏。父没後、家督継承。1491年将軍義材の近江出征に従軍。その後の管領・細川政元と与し、将軍義材を廃嫡する(明応の政変)。幕府や管領細川氏の信厚く、若狭武田氏最盛期を築いた。しかし、幕府近侍して出兵が重なった為、領国経営は苦しく、1502年若狭で土一揆が起こり、一族が討たれている。この不満の解消すべく、1506年丹後・一色義有の攻略にかかるが、戦いは長期化し、政元らの援軍を得るもこれを達せなかった。1517年今度は丹後・一色軍が若狭に侵攻するが、越前・朝倉氏の支援を得て、逆に丹後の一部を攻略に成功した。騎射等に優れて「武家故実」を作成する一方、文芸面でも大いに活躍し、歌道、歌舞、猿楽、古典籍等多芸に秀で、当代一流の文化人とも交流深かった。
◇父:武田国信 子:武田元光、信孝
若狭守護・武田氏。父没後、家督継承。1491年将軍義材の近江出征に従軍。その後の管領・細川政元と与し、将軍義材を廃嫡する(明応の政変)。幕府や管領細川氏の信厚く、若狭武田氏最盛期を築いた。しかし、幕府近侍して出兵が重なった為、領国経営は苦しく、1502年若狭で土一揆が起こり、一族が討たれている。この不満の解消すべく、1506年丹後・一色義有の攻略にかかるが、戦いは長期化し、政元らの援軍を得るもこれを達せなかった。1517年今度は丹後・一色軍が若狭に侵攻するが、越前・朝倉氏の支援を得て、逆に丹後の一部を攻略に成功した。騎射等に優れて「武家故実」を作成する一方、文芸面でも大いに活躍し、歌道、歌舞、猿楽、古典籍等多芸に秀で、当代一流の文化人とも交流深かった。
武田元信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 08:21 UTC 版)
武田 元信(たけだ もとのぶ)は、戦国時代の守護大名。武田国信の次男。若狭国・丹後国守護、安芸国分郡守護。若狭武田氏5代当主。
注釈
- ^ 前者の説では兄の武田信親よりも年長になってしまい、それより年長である後者の説では父・国信10歳の子になってしまう。これに対して大原陸路は康正元年(1455年)説を唱えた(山本大・小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編』(新人物往来社、1985年) P97)が、後に出典の解釈の誤りを指摘されたため成立しないと判断され、元信の生涯を解説した木下聡は寛正末年から文明初年の生まれと推定する(木下聡『若狭武田氏』P24)
- ^ 木下は、細川政元の偏諱と解説する木下聡『若狭武田氏』P24。
- ^ 政元が反対したのは三管領四職も家格的には相伴衆に位置しており、若狭武田家が細川京兆家と同格になることへの抵抗感があったとみられる(木下聡『若狭武田氏』P26)。
出典
- ^ a b c d e f g 高野賢彦 『安芸・若狭武田一族』p.114-122,162-163
- ^ 木下聡『若狭武田氏』P30
- ^ a b 『甲斐信濃源氏綱要』
- ^ 『大乗院寺社雑事記』明応2年11月16日・18日条
- ^ 木下聡『若狭武田氏』P25
- ^ 『大乗院寺社雑事記』明応8年10月22日条
- ^ 山田康弘『足利義稙―戦国に生きた不屈の大将軍』第1部 第3章
- ^ 『鹿苑日録』明応9年正月17日条
- ^ 『後法興院記』文亀8月6日・7日条
- ^ 『和長卿記』明応10年正月14日条
- ^ 木下聡『若狭武田氏』P.26-27
- ^ 『福井県史 通史編2』領国経営の行き詰まり[1]
- ^ 『福井県史 通史編2』武田元信の丹後出兵[2]
- ^ 『福井県史 通史編2』一国徳政[3]
- ^ 『福井県史 通史編2』守護大名から戦国大名へ[4]
- ^ 『福井県史 通史編2』多芸多才武田元信[5]
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固有名詞の分類
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