宇多頼忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/23 09:38 UTC 版)
宇多 頼忠または宇田 頼忠[注釈 5](うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀長の家老、石田氏の家臣。通称は下野守で、妻の姓を名乗るのは晩年であり、ほとんどの期間は尾藤二郎三郎や尾藤下野守を称した。
注釈
- ^ 尾藤知宣失脚後には桑山姓を名乗る。
- ^ a b 宇多頼忠の娘を真田昌幸の室とするのは、昌幸の娘が頼次の妻となったことからくる、誤伝という説もある[2]。
- ^ 石田三成の猶子となり、石田刑部少輔を称す。
- ^ 宇多次郎為勝は、佐和山落城を脱出して比叡山で出家。尊舜を号す[1]。
- ^ 姓は書籍よって「宇多」「宇田」の両方の表記がある。歴史研究家の大野信長は『「宇田」は「宇多」とも記述されるが、源氏の名族・宇多氏とは無関係であろう』と書いている[3]。
- ^ 『長国寺殿御事蹟稿』による。
- ^ 白川亨(著書『石田三成とその子孫』)によれば「津軽家史料」で二人の間に生まれた最初の子である長女(山田隼人正の妻)は関ヶ原の時点で22歳だったと記載されているので、逆算すると本能寺の変の前と推定されている。
- ^ 『真田秘伝記』による[15]。
- ^ 『極楽寺系図』による[1]。
出典
- ^ a b c 白川 1997, p. 156.
- ^ a b c 小林 1989, pp. 49–51
桐野作人『真田幸村「婚姻と人脈の謎」』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス〉、2014年。ASIN B00MN8417A - ^ 大野信長『絡み合う奇縁 真田一族の姻戚関係』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス<真田幸村と戦国時代>〉、2014年。ASIN B00O9MXZ0C
- ^ 桑田, p. 117.
- ^ a b 白川 1997, p. 152.
- ^ a b c d 白川 1997, p. 155.
- ^ 二木謙一『関ケ原合戦―戦国のいちばん長い日―』(中央公論社、1982年)63頁
- ^ 白川 1997, p. 153.
- ^ 桑田, pp. 117–118.
- ^ a b 渡辺 1929, p.271
- ^ 阿部 1990, p.146
- ^ 小林 1989, p. 210.
- ^ 国史研究会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 佐和山城攻附原淸成等自害」『關原軍記大成』 三、国史研究会〈国史叢書〉、1916年、309-312頁 。
- ^ 小林 1989, pp. 50, 210–211.
- ^ 小林 1989, p. 49.
- ^ 小林 1989, p. 50.
- ^ 小林 1989, pp. 210–211.
- ^ 白川 1997, pp. 156–157.
- ^ 白川 1997, p. 154-155.
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