波多野秀治
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波多野 秀治(はたの ひではる)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国の武将。八上城主。丹波波多野氏最後の当主。
注釈
- ^ 文化・文政(1804 - 1830年)頃の成立と推測[2]される軍記物『播州太平記』[3]は別所長治の妻を波多野秀治の娘としているが[4]、別所長治家臣・来野弥一右衛門により書かれた[5]『別所記(別所長治記)』[6]や織田方の史料『播州御征伐之事』[7](大村由己著)・『信長公記』[8](太田牛一著)にその記述は見られない。
- ^ ただしこれは籠城に詰めたことを賞したものとも見られ[19]、八上城外部からの支援があった証拠にはならないとも考えられる。
- ^ 『信長公記』は磔を6月4日のこととしているが、6日に京都を通るのを吉田兼見が見物していることから、『兼見卿記』の6月8日が正しいと考えられ[23]、谷口 (2010, p. 362) も6月8日としている。
出典
- ^ a b 河野 1916, p. 235.
- ^ 橘川 & 西川 2004, p. 11.
- ^ 橘川 & 西川 2004, pp. 129–214.
- ^ 橘川 & 西川 2004, p. 195.
- ^ 橘川 & 西川 2004, pp. 9–10.
- ^ 塙保己一 編「別所長治記」 『群書類従 第拾四輯』経済雑誌社、1894年、455–480頁 。
- ^ 塙保己一 編「播州御征伐之事」 『群書類従 第拾四輯』経済雑誌社、1894年、481–486頁 。
- ^ 奥野高広・岩沢愿彦校注 『信長公記』角川書店〈角川文庫〉、1969年、307–311頁。
- ^ 福島 2009a.
- ^ 福島 2009b, pp. 109–110, 114, 120.
- ^ 福島 2009b, p. 131.
- ^ 藤田達生 著「八上城とその城下町の変容」、八上城研究会 編 『戦国・織豊期城郭論 丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』和泉書院〈日本史研究叢刊12〉、2000年、32頁。ISBN 4-87088-996-X。
- ^ a b 谷口 2010, p. 362; 細見 1988, p. 64; 福島 2009a, p. 11.
- ^ a b 谷口 2010, p. 362; 仁木 2019, pp. 208–209; 福島 2009a, p. 11.
- ^ 仁木 2019, p. 214.
- ^ 仁木 2019, pp. 217–218.
- ^ 谷口 2010, p. 362; 仁木 2019, p. 218.
- ^ 仁木 2019, p. 218.
- ^ 福島克彦「丹波波多野氏の基礎的考察(上)」『歴史と神戸』第216号、1999年。
- ^ 仁木 2019, pp. 218–220; 細見 1988, pp. 66–68; 福島 2009a, p. 11.
- ^ 久下隆史「丹波の街道から戦国の世を偲ぶ」 『平成25年度 講座「丹波学」講義録』丹波の森公苑、2014年、5頁 。
- ^ 谷口 2010, p. 362; 仁木 2019, p. 219; 細見 1988, p. 68.
- ^ 細見 1988, p. 68.
- ^ 奥田楽々斎 『多紀郷土史考 上巻』多紀郷土史考刊行会、1958年、212頁。
- ^ a b 田中貞典. “八上城の危機を救おうとした四十九院の修業僧”. 丹波篠山へのいざない. 篠山の民話集. 丹波篠山市. 2021年4月20日閲覧。
- ^ a b 奥田楽々斎 『多紀郷土史考 上巻』多紀郷土史考刊行会、1958年、212–213頁。奥田楽々斎 『多紀郷土史考 下巻』多紀郷土史考刊行会、1958年、213–214頁。
- ^ 河野 1916, 凡例1.
- ^ 河野 1916, pp. 239–240.
- ^ アルファセレクション〈公式〉 [@a_selection_pro] (2021年1月30日). "【出演情報/白畑真逸】" (ツイート). Twitterより2021年11月20日閲覧。
[続きの解説]
「波多野秀治」の続きの解説一覧
- 1 波多野秀治とは
- 2 波多野秀治の概要
- 3 家臣
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