あんこくじ‐えけい〔‐ヱケイ〕【安国寺恵瓊】
安国寺恵瓊
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい) ????~1600
◇父:武田信重
安芸守護武田信重の遺児(といわれる)。武田家滅亡時に逃れ、竺雲恵心の元で僧となる。安芸・安国寺、備前・安国寺の住持となり、後に京・東福寺住持となる。恵心が安芸・毛利氏の外交僧をしていたことから、恵瓊も毛利氏の外交僧となり、主に小早川隆景の元で働いた。羽柴秀吉の攻略を受けた際は、講和をまとめ、以後秀吉の側近ともなる。朝鮮出兵の際には従軍僧として渡海するが、同じ毛利氏臣の吉川広家と意見の齟齬があった。関ヶ原の戦いにおいて西軍として毛利輝元を総大将に担ぎ上げるが、東軍に内通する広家を説得しきれず、結果毛利氏は動かず敗戦する。この責任をとって京・六条河原にて斬首された。その野心家ぶり等から“妖僧”と囁かれる程の者であった。
安国寺恵瓊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/01 23:55 UTC 版)
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧[注釈 2]。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺[注釈 3]の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。
注釈
- ^ 『太閤記』の一場面で、毛利の使者として秀吉に対面し、信長死去に落涙する秀吉に驚く安国寺恵瓊を描いたもの。
- ^ 武家の対外交渉の任を務めた禅僧。戦国時代には僧が武家に仕え、他との交渉を請け負うことが多々あった。
- ^ 安芸安国寺(不動院)。在広島県広島市東区牛田新町。
- ^ ただし、講和交渉が正式にまとまったのは天正13年1月の京芸和睦のときである。
- ^ 佐々成政宛の安国寺恵瓊書状に記述があり、辺春氏に恩賞を賜るべく奔走したものの果たせなかった。
- ^ 陣立書には合戦に参加した大名・諸将とその兵力が記載されており、津野説では恵瓊が大名であれば陣立書にその名前と動員兵力が記載されている筈であると指摘する。
- ^ 津野倫明は、毛利氏における恵瓊の政治的立場を長宗我部氏における非有や徳川氏における崇伝と近いものと捉えている[10]。
出典
- ^ 桑田, p. 56.
- ^ 桑田, p. 57.
- ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち』中央公論新社〈中公新書〉、2007年。ISBN 4-12-101907-5。[要ページ番号]
- ^ 熱田, p. 92.
- ^ 宮本義己「戦国母子像の虚実」『歴史読本』34巻13号、1989年。
- ^ 二木謙一『関ヶ原合戦―戦国のいちばん長い日―』中央公論社、1982年。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 68頁。
- ^ 『広島県史古代中世資料編IV』(広島県、1978年)所収「不動院文書」20号
- ^ 『鹿児島県史料旧記雑録後編二』(鹿児島県、1982年)15号「(天正一三年)三月一五日付島津義久充恵瓊書状」
- ^ a b 津野 2000.
- ^ 藤田達生「付論―安国寺恵瓊の評価をめぐって―」『日本近世国家成立史の研究』校倉書房、2001年。
- ^ 津野 2012.
- ^ 吉川元春家臣
- ^ 河合, pp. 46–47、書状は『吉川家文書』610号現存。
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 04:56 UTC 版)
「信長協奏曲」の記事における「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」の解説
毛利家の外交僧。都落ちした足利義昭が備後・鞆に流れ、毛利家に世話になっているので、悪態をつく義昭の愚痴を聞く立場にある。
※この「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」の解説は、「信長協奏曲」の解説の一部です。
「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」を含む「信長協奏曲」の記事については、「信長協奏曲」の概要を参照ください。
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
「センゴク」の記事における「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」の解説
通称は瑤甫。毛利家の外交僧。第二部で荒木村重の突如の謀反の背後には恵瓊がいると秀吉・光秀は睨んでいた。初登場は第三部で高松城攻め中の羽柴軍との講和交渉に毛利側の全権代表として出席。羽柴軍の徹底した情報封鎖により本能寺の変を知らずに講和の交渉を行い、羽柴側の交渉担当であった官兵衛にその本質を見抜かれ羽柴軍に有利な条件で和睦する事を承諾。その後も毛利側の全権代表として羽柴家との講和交渉を続け、輝元の養女と羽柴秀勝の婚姻による毛利・羽柴の同盟を成立させた。四国征伐後、豊臣家から割譲された伊予で二万石の領地を与えられる。
※この「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。
安国寺恵瓊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:41 UTC 版)
伊予国に領地を持つ大名。元は毛利氏の外交僧であったが織田信長の在世中から秀吉の天下の到来を予見し、毛利氏の外交を秀吉の利に合うよう誘導し、天下取りの一助を担った。豊臣政権が成立して後は、その手腕を高く評価した秀吉によって外交参謀となり、僧のまま大名に取りてられた。秀吉の死後は家康の台頭を見越していたが、自身が築いたと自負する豊臣政権に愛着を持つことから三成の挙兵計画に構想段階から加わり、外交顧問として影響力を持つ毛利氏の西軍参加を取り決め、当主の輝元を西軍総大将の地位に就けた。
※この「安国寺恵瓊」の解説は、「関ヶ原 (小説)」の解説の一部です。
「安国寺恵瓊」を含む「関ヶ原 (小説)」の記事については、「関ヶ原 (小説)」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 安国寺恵瓊のページへのリンク