肥後国人一揆とは? わかりやすく解説

肥後国人一揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 02:05 UTC 版)

肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。


  1. ^ 甫庵太閤記によると、6月6日に秀吉は成政に、3年間検地や普請役を猶予し、国人が一揆を起こさないよう配慮せよとする定書を与えたとするが、この定書の宛名は「佐々内蔵助」となっており、実在するか疑わしい。5月晦日付の相良長毎・大矢野種基宛の朱印状では秀吉は成政を「羽柴陸奥守」、6月2日付の成政宛書状では「羽柴肥後侍従との」と記しているからである。『熊本県の歴史』(1999年)p.151
  2. ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P274-276・279-283.
  3. ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P288-290.
  4. ^ a b 小和田(2006)p.213


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肥後国人一揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 19:09 UTC 版)

安国寺恵瓊」の記事における「肥後国人一揆」の解説

肥後国人一揆が起こった際には芸州からなる第二陣の将として・粟屋古志伊勢小田日野毛利家臣の兵を率いて小早川秀包立花宗茂鍋島直茂筑紫広門らの第一陣に続いた第一諸将と共に春親行、和仁親実籠る田中城攻めた際には辺春氏を内応させて落城導いたほか、 一揆盟主隈部親永降伏させる天草五人衆のひとり志岐麟泉人質受け取るなど有力国人たちを調略大田黒城の大津山家稜を講和偽り誘い出し吉地浄満院での宴の最中佐々成政家臣に家稜を刺殺させ大津山氏を滅ぼす。 降伏した空閑鎮房を柳川城での桃の節句の宴に呼び寄せて謀殺近隣諸氏牧野城に拠った内空閑鎮照を討伐させる。 など参謀謀将として活躍した(「肥後古城物語」ほか)。戦後佐々成政和仁親実らの助命嘆願するが、果たせなかった。

※この「肥後国人一揆」の解説は、「安国寺恵瓊」の解説の一部です。
「肥後国人一揆」を含む「安国寺恵瓊」の記事については、「安国寺恵瓊」の概要を参照ください。

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