七尾城の戦いとは? わかりやすく解説

七尾城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/09 22:11 UTC 版)

七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)は、天正4年(1576年)11月から天正5年(1577年)9月にかけての越後の上杉謙信軍と能登畠山家の重臣・長続連率いる畠山軍の能登七尾城での戦い。この戦いで上杉軍が勝利し、能登は上杉家の支配下に入った。


  1. ^ 布施 1968, p. 502.
  2. ^ 布施 1968, pp. 516–517.
  3. ^ 布施 1968, p. 518.
  4. ^ 布施 1968, p. 523.
  5. ^ 布施 1968, p. 524.
  6. ^ a b 布施 1968, p. 485.
  7. ^ 布施 1968, p. 486.
  8. ^ 布施 1968, p. 525.


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七尾城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「七尾城の戦い」の解説

天正4年1576年11月謙信能登国進み、熊木城穴水城甲山城(かぶとやまじょう)、正院川尻城(しょういんかわしりじょう)、富来城(とぎじょう)など能登国諸城次々攻略した後、七尾城囲んだ第一次七尾城の戦い)。しかし七尾城石動山北端松尾山山上築かれ難攻不落の巨城であり、力攻めは困難であった付城として石動山城を築くものの攻めあぐねて越年する。 天正5年1577年)、関東での北条氏政進軍もあり、春日山一時撤退したその間敵軍によって上杉軍前年奪っていた能登諸城次々落とされた。関東諸将から救援要請受けていた謙信のもとに、能登国での戦況悪化加え足利義昭毛利輝元から早期の上洛を促す書状が届く。 これに至り謙信反転決意し同年7月、再び能登侵攻し諸城攻め落とし七尾城を再び包囲する第二次七尾城の戦い)。このとき、城内疫病流行傀儡国主である畠山春王丸までもが病没したことにより厭戦気分蔓延していた。しかし、守将の長続連は、織田信長援軍望みつないで降伏しようとはしなかった。このため謙信力攻めは困難とみて調略試みる。 そして、9月15日遊佐続光らが謙信通じて反乱起こした信長通じていた長続連らは殺され、ついに七尾城落城。この2日後17日には加賀国との国境に近い能登末森城攻略

※この「七尾城の戦い」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「七尾城の戦い」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。

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