第2次七尾城の戦いとは? わかりやすく解説

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第2次七尾城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/20 06:42 UTC 版)

七尾城の戦い」の記事における「第2次七尾城の戦い」の解説

7月北条軍侵攻大規模なものではなく領国仕置済ませた謙信は再び能登出陣した驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して兵力以って七尾城に籠もった。さらにこの時続連は領民に対して徹底抗戦呼びかけ半ば強制的に領民七尾城に籠もらせたのであるこのため城内兵士領民合わせて1万5000人近く大人数となったちなみにこのように七尾城慌てて再び籠城戦準備なされていたとき、穴水城長沢光国甲山城の轡田肥後七尾攻め寄せたが、逆に敗退している。 続連は謙信再出兵に危機感強め僧籍にあった息子長連龍安土城織田信長の許に使者として派遣し援軍要請した信長要請了承し8月8日柴田勝家総大将とした織田軍を能登派遣した謙信8月9日織田軍の越前出兵知り加賀一向宗総領である七里頼周に対して救援求め書状送って織田軍の進軍妨害求め、また石動山本陣置いて七尾城攻略急いだ七尾城堅城であったが、籠城戦が続く中、城内疫病起こり畠山軍の兵士たち戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだ幼君畠山春王丸籠城中に疫病死去してしまった。窮した続連は小伊勢村八郎右衛門上杉軍に対して一揆起こすように扇動した。ところが一揆またもや謙信によって事前に封じ込まれ七尾城落城寸前となったこのような中で、かねてから謙信であった遊佐続光は、かねてから謙信呼びかけ応じ仲間温井景隆三宅長盛兄弟らと結託して内応ようとしていた。もともと彼らは、親信長派として実権自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。遊佐温井らは9月13日付で謙信に対して内応了承書状送った。この日は中秋の名月の日で、本陣月見の宴を催していた謙信は「軍営秋気清(軍営満ちて秋気清し)。数行過雁三更数行過雁三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷遠征さもあらばあれ家郷遠征憶うは)」という七言絶句いわゆる十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。 9月15日遊佐温井三宅らは十五夜の月の日に城内反乱起こし城門開けて上杉軍招き入れた。この反乱によって続連とその子長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子竹松丸と弥九郎ら長一族100余人ことごとく討たれてしまった。長一族唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍要請行った連龍と、綱連の末子である丸のみであった。こうして七尾城謙信の手落ちた能登も完全に謙信支配下入った

※この「第2次七尾城の戦い」の解説は、「七尾城の戦い」の解説の一部です。
「第2次七尾城の戦い」を含む「七尾城の戦い」の記事については、「七尾城の戦い」の概要を参照ください。

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