第2次七尾城の戦い
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閏7月、北条軍の侵攻は大規模なものではなく、領国の仕置を済ませた謙信は再び能登に出陣した。驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に籠もった。さらにこの時続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせたのである。このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となった。ちなみに、このように七尾城で慌てて再び籠城戦の準備がなされていたとき、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せたが、逆に敗退している。 続連は謙信の再出兵に危機感を強め、僧籍にあった息子の長連龍を安土城の織田信長の許に使者として派遣し、援軍を要請した。信長は要請を了承し、8月8日に柴田勝家を総大将とした織田軍を能登に派遣した。 謙信は8月9日に織田軍の越前出兵を知り、加賀の一向宗の総領である七里頼周に対して救援を求める書状を送って織田軍の進軍妨害を求め、また石動山に本陣を置いて七尾城攻略を急いだ。 七尾城は堅城であったが、籠城戦が続く中、城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだ。幼君の畠山春王丸も籠城中に疫病で死去してしまった。窮した続連は小伊勢村の八郎右衛門に上杉軍に対して一揆を起こすように扇動した。ところが一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。 このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、仲間の温井景隆や三宅長盛兄弟らと結託して内応しようとしていた。もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。遊佐・温井らは9月13日付で謙信に対して内応了承の書状を送った。この日は中秋の名月の日で、本陣で月見の宴を催していた謙信は「霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)。数行過雁月三更(数行の過雁月三更)。越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)。遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)」という七言絶句、いわゆる『十三夜の詩』を口にしたと伝わっている。 9月15日、遊佐・温井・三宅らは十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れた。この反乱によって続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族100余人はことごとく討たれてしまった。長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。こうして七尾城は謙信の手に落ちた。能登も完全に謙信の支配下に入った。
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